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道奥 MICHINOKU せみなりお

聖書を学び、聖書で考え、聖書に生きる

ルカ16章19節-17章10節

ルカ

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死後の世界について

主は「律法の一画が落ちるよりも、天地の滅びるほうがやさしいのです。」(16:17)と語られ、続いて一つのたとえをお話しになりました。

 

このたとえの登場人物は、ぜいたくに遊び暮らしていた金持ちと、全身におできのある貧しい人ラザロです。地上的な視点では「裕福で幸せな人」と「貧しく不幸な人」のように見えるかも知れません。しかし、二人とも “100パーセント平等” に死を迎えます。そして、ラザロは「アブラハムのふところ」に、神を畏れることのなかった金持ちは「ハデス」に行くことになりました。


この箇所で言われている二つの場所がどこであるのかは、細かい神学的な議論がありますが「死後の行き先は一つではない」ということをまず理解する必要があります*1。みんなが仲良くそろって天国に行くわけでも、お星様になるわけでもないのです。


ハデスで熱さと渇きに苦しむ金持ちは、ラザロを助けに寄越してくださいとか、ラザロを家族の家に送ってみんなに「ここに来るな!」と言い聞かせてほしいとか、都合の良い願いをします。しかし、アブラハムはこう答えます。

 

「彼らには、モーセと預言者があります。その言うことを聞くべきです。…もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。」(16:29, 31)


モーセと預言者とは、私たちが「旧約聖書」と呼ぶものです。これはたとえ話ですので、死後の世界においてアブラハムが実際にこのようなやりとりをしたということではないでしょう。しかし、主がここで仰っていることは、死後の世界については「聖書から学ぶべき」「聖書のみを信頼すべき」ということです。


最近、米国で『天国はほんとうにある(Heaven is for real)』という映画が話題になりました。日本でも2014年12月に公開されますが、この作品は、4歳の男の子の“臨死体験”を父親が綴った本に基にしています。

 

この父親は牧師であり、イエス・キリストによってのみまことの救いがあることを信じるクリスチャンです。彼らの信仰と良心を疑う訳ではありませんし、いわゆる“臨死体験”と呼ばれるものを経験したことも否定はしません。私が昨晩「こういう夢を見た!」と言っても、誰も否定できないのと同じです。

 

しかし、私たちは、誰かの体験や経験談が私たちの信仰の根拠になるわけではないことを覚える必要があります。この映画を「伝道のために…」と推薦している人々もいますが、私はあまり好ましいとは考えません。むしろ、聖書そのものが人々に伝わっていくよう努力する必要があると考えます。

 

この件に関しては、ランディ・アルコーン氏の記事が参考になります(残念ながら英語のみ)。

 

弟子として生きる不可能さを可能にする信仰


次に主は弟子たちに対していくかの心構えを語られます。


ここで「つまずき」と訳されていることばは、スキャンダルの語源となった「スカンダロン」というギリシヤ語で、「落とし穴」「妨げ」などを意味します。


主は「つまずきが起こるのは避けられない。だが、つまずきを起こさせる者はわざわいだ」と語られました。罪を犯し、神に背を向ける人々がいるのは避けられない現実です。しかし、自ら進んで人々に「落とし穴」「妨げ」を提供し、罪を犯すように促したり、信仰を妨げたりすることは災いです。


また、「兄弟が罪を犯したなら、彼を戒めなさい。そして悔い改めれば、赦しなさい。かりに、あなたに対して一日に七度罪を犯しても、『悔い改めます』と言って七度あなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」(17:3-4)ともお教えになりました。これは、どんな悪事でも無条件に許容することを教えている訳ではありません。同じ神を仰ぐ兄弟が自分の罪を認めて謝罪して来たならば、それを赦すように…という教えです。


それにしても簡単なことではありません。私たちが、主の弟子として生きることは可能なのでしょうか。ですから、弟子たちは「私たちの信仰を増してください。」(17:5)と願います。そんな「赦し」の愛に生きるためにはとてつもなく大きな信仰が必要だと考えたわけです。


しかし、主は「からし種ほどの信仰があったなら、この桑の木に、『根こそぎ海の中に植われ』と言えば、言いつけどおりになる」(17:6)と言われました。ここで主は「小さな本物の信仰」があれば不可能は可能になると教えておられます。これは単に「不可能と思えるような“願望”が実現する」という意味ではなく、「不可能と思えるような“みことばの命令”に従うことができるようになる」という意味です。

 

その小さな本物の信仰を説明するために主は「言いつけを守るしもべ」のたとえを話されました。

 

「しもべが言いつけられたことをしたからといって、そのしもべに感謝するでしょうか。あなたがたもそのとおりです。自分に言いつけられたことをみな、してしまったら、『私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです』と言いなさい。」(17:9-10)


小さな本物の信仰は「主のみことばを守るのは当然です」と告白する信仰です。私たちは聖書を読んで、簡単に「そんなことを言われても自分には無理だ」「そこまで要求されても従うことは不可能だ」と考えます。それどころか、主の命令を「不当だ」「なぜ従わなければならないのだ?」と考えたりもするのです。

 

しかし、私たちを救うために独り子をさえ惜しまずにお与えになった神は、私たちを苦しめるために不当な無理難題を要求しておられるのでしょうか。私たちに実行不可能なことを求め、私たちが困惑するのを眺めて楽しんでおられるのでしょうか。決してsぽうではありません。


「みことばを守ることは当然です。従いなさいと仰る主は、必ず、従うために必要な力も備えてくださいます」と信じ、告白する弟子たちは、その信仰によって不可能が可能となる経験をしていくことができるのです。そして、みことばに生きる幸い、祝福を豊かに味わっていくことになるのです。

 

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1章が短いのでとても読みやすい本です。誰かの臨死体験談よりも、みことばはずっとずっと詳しく、エキサイティングな内容を語っています。

ほんとうの天国

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*1:この箇所で主は、永遠の行き先について語っておられるのではない。なぜなら、「死とハデスとは、火の池に投げ込まれた」(黙示録20:11-15参照)を見ても分かるように、ハデスは永遠に続く場所ではないからである。「まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。」(詩篇16:10)で「よみ」と訳されているのは、「シェオール」というヘブル語であるが、旧約の「シェオール」と新約の「ハデス」は同義であると考えられる。この場所は、死者が “まず最初に” 行く場所であり、「アブラハムのふところ」と呼ばれる平安と幸いのある場所、狭義の「ハデス」とされる炎のある苦しみの場所に分かれていると考えられる。これらの場所は、終末的な裁きに際してその役目を終えることになる。