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道奥 MICHINOKU せみなりお

聖書を学び、聖書で考え、聖書に生きる

ルカ19章1-27節

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定められていた救い

取税人のかしらであったザアカイの名前は「正義の人」という意味でした。しかし、その名前とは裏腹に、彼は人からお金をだまし取って私腹を肥やすような生活をしていました。

 

取税人とは、現在の税務署職員のような働きとは全く異なります。ユダヤ人でありながらローマ帝国の手先になり、同胞から高い税金をむしり取るばかりか、余計に取り立てて自分のふところに収めるようなことをしていたのです。


ザアカイは、取税人や売春婦をも分け隔てせずに迎えて教えておられる主イエス様の噂を聞いて、一度会ってみたいと願っていたようです。しかし、すでに大勢集まっていた群衆にさえぎられ、背の低いザアカイは主を見ることができませんでした。彼はとっさにいちじく桑の木にのぼり、主を見おろします。

 

イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。(19:5-6)


7節を見ると人々がザアカイを「罪人」と呼んでいるのが分かりますが、主は「ザアカイ」と名前を呼ばれました。そして、「あなたの家に泊まることに“してある”」とおっしゃるのです。主は、その場の思いつきやで彼を救われたのではありません。「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」(10節)とおっしゃる通り、主は、この世に来られる前から心を定めておられました


ザアカイの心に好奇心を与え、ザアカイの身長を定め、その場にいちじく桑の木を置き、ザアカイが木から見下ろすと同時にその真下を通るように…とお定めになっていたのです。私たちの救いも同じようにして起りました。

 

すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。(エペソ1:4-5)


金の亡者のような人物であったザアカイが、主との出会いを喜び、富の施しと賠償を申し出ます。真に主イエス様に出会い、救われたものは生き方や価値観の転換を経験します。しかし、このような変化は「救いの条件」ではなく「救いの結果」として起こるものです。

 

救われた者の生き方

 

主がエルサレムに近づくにつれ、主に従って歩んでいた人々は「神の国がすぐにでも現われる」と思い始めたようです。つまり、彼らは、主が「メシヤ」「王」としてすぐに即位なさると考えたのです。しかし、それは誤解でした。

 

主は10ミナのたとえによって、彼らのそのような誤解を解かれた。主は、「主の初臨と再臨の間には時間的な隔たりがあり、その間、弟子たちは主のために忙しく働くことになる」ということを明らかにされた。(ウィリアム・マクドナルド)


初臨(First Coming)とは2000年前のクリスマスのこと、再臨(Second Coming)とは、聖書の預言通り、やがて主イエス様がこの地上に再び来られることです。

 

この「10ミナのたとえ」には、大きく分けると三組の登場人物が出て来ます。第一にそれは、「王位を受けようとしている身分の高い人」であり、これは主イエス様を指しています。第二は「しもべたち」で、これは、弟子たち、キリスト者たちを指していると考えられます。第三は「身分の高い人が王になることを望まなかった国民たち」で、これは、最後の最後まで主イエス様を拒む人々のことを指していると思われます。


私たちは自分たちを、この第二の「しもべたち」に重ね合わせて考えたいと思います。マタイの福音書にある「タラントのたとえ」と似ていますが、このしもべたちには主人の財産が託されています。私たちにも主から様々なものが託されています。命、時間、能力、知識、体力、富、環境、経験、人間関係などなど…。これらを賢く管理し、神と人とのために有効に用いることが期待されています。

 

それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。(1ペテロ4:10)

 

主は必ず戻ってこられます。そして、私たちは「さばきの座」に立ちます。

 

なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現われて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。(2コリント5:10)


この「さばきの座」は、救いか滅びかを審判するための場所*1ではありません。ここでは、オリンピック競技などの審判席を表すことばが用いられており、「賞・報酬を判定するための場」を意味します。真に救われたキリスト者は、救いを失うことはありません。しかし、どのように生きるかによって将来の報いが異なるということを覚える必要があります。


カギとなるのは、どのように主を知っているか(信じているか)です。悪いしもべは、主を「計算の細かい、きびしい方」と考えていました。そのくせ、すぐには帰って来るまいと高をくくっていたのです。彼はその言葉と行動に応じてさばかれ、報いを受け損ないました。

 

しかし、主を偉大で、恵みと憐れみに満ちた方であると信じ、いつ帰って来られても良いように備えていたしもべは、多くを与えられました。ザアカイもそのような一人になったことでしょう。私たちも、主の帰りを待ちわびながら、与えられているものを主のために用いることに励もうではありませんか。

 

 


#19キリストの再臨の時期は分かるのですか?【3分でわかる聖書】 - YouTube

 

*1:それは「大きな白い御座」(黙示録20:11)と呼ばれ、キリストのさばきの座とは異なる。