主イエス様は一晩のうちに、六度もの不当な裁判にかけられました。監視人たちは主をからない、鞭で打ち叩きました。抵抗しようと思えば、彼らをあっという間に打ち払うこともおできになったでしょうが、主は一人の「人」として、罪人として苦難を身に受けておられます。
すべてをお見通しの神を叩く…
この人々は当時のチンピラ、ゴロツキの類いであったと言われていますが、ボディーガードとして祭司長に雇われていたようです。彼らは主に目隠しをして、「言い当ててみろ。今たたいたのはだれか」と聞きました。主が全知全能の神ご自身であることも、最終的な裁き主であることも知らず、主を嘲笑しているのです。
「主の御目はどこにでもあり、悪人と善人とを見張っている。」(箴言15:3)
目隠しをされていても主はお見通しでした。彼らは本来「今たたいたのは誰か?」と主に問うのではなく、「私がたたいてしまった相手は誰か?」と自分自信に問いかけるべきでした。彼らは自分たちがどれほど恐ろしいことをしているか、全く理解していなかったのです。
私たちが過去に自分が無視し、侮辱し、敵対して来た相手は「すべてをお見通ししの神」ご自身です。私たちの犯して来た罪の恐ろしさに、震える思いがします。それにも関わらず、このような罪深い私たちが赦され、義とされているとは、聖書の神様はなんと憐れみ深い偉大な神でしょうか。御名をほめたたえずにはいられません。
主が直接お答えにならなかった理由
ユダヤ人指導者たちは「あなたがキリストなら、そうだと言いなさい」と、主を問いつめました。なんという横柄な態度でしょうか。それに対して主は「わたしが言っても、あなたがたは決して信じないでしょうし、わたしが尋ねても、あなたがたは決して答えないでしょう」と応じられました。この応答には幾つかの理由が考えられます。
一つは、「キリスト(すなわちメシヤ)」という言葉が、当時のユダヤ人たちにとって「政治的な解放者」を意味していたことが挙げられます。主はまぎれもなく真の「メシヤ」でなのですが、「私はメシヤだ!」という主張は「私はローマ帝国を打ち破ってユダヤ人の独立国家を築く指導者だ!」という意味に誤解されてしまう状況だったということです。
もう一つの理由として、主ご自身がおっしゃっている通り、彼らが真実を聞いても「決して信じない」「信じようともしない」人々だったことが挙げられます。彼らは既に、主がなさった奇跡や教えを通して、信じるに足る十分な材料を得ていたはずです。しかし、それでも「信じるつもりがない」のです。
私たちの信仰について関心を抱き、真摯に質問をしてくださる方々がおられます。私たちはその方々に対して真摯にお答えできる準備をすべきです。と同時に、信じるつもりもないのに「証拠を見せてみろ!」と議論をふっかけてくる人々もいます。そのような方々との議論に巻き込まれることは避けるべきでしょう。
…あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。(1ペテロ3:15b)
主の驚くべき宣言
次に「ではあなたは神の子ですか」と問われた際、主は驚くべきことばをもって応答されました。
すると、イエスは彼らに「あなたがたの言うとおり、わたしはそれです」と言われた。(22:70)
ルカが記している「わたしはそれです(I am)」という言葉は、ギリシヤ語の「エゴー・エイミ」です。これはヘブル語では、あのモーセが荒野で燃える柴を見た際に聞いた「私はある」(ヤハウェ)ということばに相当します。
主はここで明確に「神宣言」をしておられます。ある人々は、主イエス様が神であることを否定し、単なる人であると考えます。別な人々は逆に、主が人であることを否定し、単に神であると考えます。しかし、聖書全体を丁寧に学ぶとき、私たちは完全に人であり、完全に神であられるイエス・キリストを見いだします。
「…主イエス・キリストは、神の永遠の御子でありつつ人となられました。それで、当時も今もいつまでも、二つの区別された性質、一つの人格をもつ、神また人であり続けられます」(ウェストミンスター小教理問答)
人が仲良くなる目的
ローマ総督ピラトは「この人には何の罪も見つからない」と言いましたが、騒動は収まりません。主がガリラヤ出身であることを知ったピラトは、ガリラヤ・ペレヤの領主であったヘロデ・アンティパスのもとへと主を送りました。このヘロデは、主の誕生の際に幼児虐殺を行ったヘロデ大王の息子であり、バプテスマのヨハネを殺害した人物です。
彼は主イエス様に会いたいと願っていましたが、それは単なる興味本位や好奇心によるものでした。結局、兵士たちと共に侮辱、嘲弄をし、はでな衣を着せて、ピラトのもとへと主を送り返しました。
この日、ヘロデとピラトは仲よくなった。それまでは互いに敵対していたのである。(23:12)
これまで敵対していた者同士が、主に敵対するために手を取り合う…。残念ながらこのようなことが現代にも起ります。本来、利害や考えが一致するはずのない者同士であっても、神を神の座から引き下ろすという共通の欲望のために協力をするのです。
私たちは、神を神とする心を共通に抱き、主に用いられるために一致したいと思います。個人の好み、それぞれの背景や感じ方は様々ですが、「主の御名があがめられますように」「教会が建て上げられますように」「一人でも多くの人々が救われますように」という、御心に沿った願いのもとで手を取り合い、譲り合い、与え合い、助け合っていきたいと思います。