そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。(23:34)
無自覚の罪は恐ろしいものです。自ら気づいて反省することも、謝罪することもありません。しかし、私たちの罪は往々にしてそのようなものです。作家の三浦綾子さんは「罪を罪と感じないことが罪だ」と綴っています。私たちクリスチャンは「私は罪人です」と言いますが、しかし、誰一人としてその重みを本当の意味では理解していないのです。
三浦さんのデビュー作にして最大のベストセラー『氷点』では、自分の中に流れる罪の血に苦しむ主人公の陽子が次のような遺書を書きます。
今、「ゆるし」がほしいのです。… 私の血の中を流れる罪を、ハッキリと「ゆるす」と言ってくれる権威あるものがほしいのです。(三浦綾子著『氷点』)
このような権威ある赦しは、主の十字架からのみやってきます。罪の自覚もなく赦しを求めることさえしない私たちに赦しをもたらすために、主が味わわれた苦しみ、痛み、その愛、忍耐はどれほど大きなものだったことでしょう。二十世紀の日本を代表する伝道者の一人、沢村五郎牧師は次のように語りました。
カルバリーの丘に引きずってきた獄卒らは、傷口にこびりついている着物を、まるで獣の生皮でもはぐように脱がせます。頭にはいばらの冠をかぶらせ、鮮血がからだに流れ滴ります。それから両手両足を十字架に釘付けにし、掘っておいた穴にドシンと突き立てます、全身の重みは、両手両足の傷口に集中してちぎれるばかりです。しかもキリストは一言もつぶやきません。
「キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました」(1ペテロ2:21-23)と使徒ペテロは言いました。
最後の一息までも忍び、自分を殺す者のために、「父よ。彼らをお赦しください」と祈りたもうとは、なんたる忍耐でありましょう。おそらく、この世の初めから、このような忍耐は地上に見ることはできませんでした。私たちがもし真の忍耐を見たいと思うならば、十字架上のキリストを仰がねばなりません。
(沢村五郎著『今は救いです』より)