道奥 MICHINOKU せみなりお

聖書を学び、聖書で考え、聖書に生きる

第一列王4章

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主イエス様をして「栄華を窮めたソロモン」と言わしめた繁栄ぶりが、この4章には詳しく記されています。

 

卓越した統治

彼は知恵ある人物でしたが、それは何でもかんでも自分で考えて自分で決めるというワンマン型のリーダーであったことを意味しません。彼は多くの人材を効果的に活用しました*1。このような王のもとで仕えた人々は幸せだったでしょう。また、5節には「王の友」と呼ばれる祭司の名が記されていることから、彼が正直に話し合える相談相手、アドバイザーを持っていたこともうかがえます。

 

24-25節には「平和」「安心」ということばが出て来ますが、これを短期間で実現することができる統治者は歴史の中でもそういません。29-30節には、神がソロモンに「非常に豊かな知恵と英知と、海辺の砂浜のように広い心」をお与えになっていたこと、その知恵が東方(ペルシヤなど)の人々やエジプト人たちのそれにまさっていたことが書かれています。彼は数多くの箴言(格言)、歌を生み出しました。それが旧約聖書「詩篇」「箴言」「伝道者の書」「雅歌」の中に収められています。また、自然科学各分野の専門家であったこともうかがい知ることができます。

 

気の弛み

このようなソロモンの統治下で、「ユダとイスラエルの人口は、海辺の砂のように多くなり、彼らは飲み食いして楽しんで」(20節)いました。楽しむことは良いのですが、幾分か気の弛みも見て取れます。22-23節には一日分の食糧が記録されています。これはソロモン一人で食べたという意味ではなく、取り巻く人々皆の分を含めた量ですが、それにしてもちょっと大盤振る舞いをし過ぎです。繁栄しているからといって、あまりにも贅沢な食事や暮らしぶりを続けるのはどうでしょうか。ソロモン自身、後に「伝道者の書」の中で、贅沢をするために労苦することの空しさを語っています。

 

ソロモンに与えられた知恵や平和的人格は、確かに優れたものでしたが、十分に深く神の御心をキャッチするものではなかったようです。これについては、バクスターという注解者が優れた解説をしています。

 

ソロモンが、富、権力、長寿を求めず、知恵を求めて祈ったのは麗しい。それは、若い王が、既に際立った知恵を持っていたことを示している。なぜなら、他の何ものにも勝って知恵を求めたことが、他の何ものにも勝る知恵のしるしだったからである。とはいえ、彼が求め、超自然的に与えられた知恵がどのようなものであったかを理解しなければ、彼がここでなした選択の真価は分からないだろう。そして、このことを理解していなければ、彼の知恵と後の愚かな行為の矛盾に困惑することであろう。

 

ソロモン自身のことばが、彼の元目や知恵が“霊的な”知恵 ー再生、聖化、神との親しい交わりによってのみもたらされる神的な事柄に対する洞察力、パウロが新約聖書で語っている知恵ー ではなかったことを示している。このような知恵において、ソロモンは、父ダビデよりも、はるかに劣っていたのである。ソロモンが求めた知恵 ーそして、超自然的に授けられた知恵ー は、行政上の識別力、機敏な判断力、知的な把握力、知識を獲得する能力、事務を管理する実際的な知恵であった。このような知恵においては、彼は当時の有名な哲学者たちよりも勝っていたのである。

 

(J.シドロー・バクスター『旧約聖書全解』より)

 

彼は優れた先見の明を持ち、国家体制を整え、軍備増強をします。優れた政治家なら当然のことかもしれませんが、しかし、神の目にそれが十分適っていたかどうかは疑問です。

 

確かに私たちは「ソロモンのような聡明さがあったら」と願います。もちろん、それは素晴らしいことです。しかし、それ以上に「ダビデのような信仰をいただきたい」と願う必要があります。賢人となること以上に、幼子のような信仰で神に信頼する者となることを求めていきたいと思うのです。「主よ、“まことの知恵”をお授けください」と今日も祈りたいと思います。

 

 

*1:4節を、新聖書注解は「追放されたはずのエブヤタルの名がなぜここに出ているのかは不明。一族の中の別人であろう」と解説、また、エブヤタルという名は「名誉称号」のようなものではないかという説もある。