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道奥 MICHINOKU せみなりお

聖書を学び、聖書で考え、聖書に生きる

第一列王8章

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ソロモン神殿での礼拝を見るとき、私たちは「どのような礼拝をすべきか」を考えさせられます。

 

準備された礼拝を捧げよう!


イスラエルのすべての人々が、この神殿奉献礼拝のために集まったのは「エタニムの月、すなわち第七の新月の祭り」であったと書かれていますが、これは前の章にあった建築完成の出来事から約1年後のことです。つまり、この礼拝のための準備は随分と時間をかけてなされたのです。数えきれないほどの捧げものの動物が用意されました。そもそもイスラエルの民は何年もかけて神殿を建築し、用具の準備をしてきたのです。

 

私たちも良い準備をして礼拝を捧げたいと思います。礼拝の前日や当日の朝、説教者や賛美奉仕者、集う人々のために祈ることも良いでしょう。メッセージの聖書箇所が予告されている場合はあらかじめ読んでおくのが良いでしょう。また、チャペルに来てからすることは特に以下の2つです。礼拝のために心を備えることと来会された方(新しい方はもちろん、普段集っている仲間も含めて)を歓迎すること。それ以上の、礼拝から心をそらすような雑談は基本的に不要です。 


臨在に満ちた礼拝を捧げよう!

モーセの幕屋で礼拝が捧げられたときもそうでしたが、主は、御心に適った礼拝が捧げられる時にご自身の臨在を現してくださいます。

 

祭司たちが聖所から出て来たとき、雲が主の宮に満ちた。 祭司たちは、その雲にさえぎられ、そこに立って仕えることができなかった。主の栄光が主の宮に満ちたからである。(8:10-11)


聖書の啓示が完成された今、主はモーセやダビデ、ソロモンの時代と同じような奇跡的方法でご自身の臨在を現すことは基本的になさらないでしょう。しかし、私たちが心から礼拝を捧げるときに主は「ここに主はおられる!」という確信へと皆を導いてくださいます。

 

私も日曜日の礼拝の中で、また、個人的に祈りや賛美を捧げる中で、これまで何度も「立っていられない」「ひざまずかずにはおられない」という思いにさせられ、実際にひざまずいたり、ひれ伏して祈ったりしたことがあります。「主がここにおられる!」という実感を味わうとき、私たちは足を組んだり、ポケットに手を突っ込んだりはしていられなくなります。畏れを覚え、同時に深い感激や光栄な思いに満たされるはずです。

 

みことばが正しく語られる礼拝を捧げよう!


ソロモンは「主は…仰せられました」「主は御口をもって…言われました」と繰り返しながら、主のみことばを民に分かち合います。礼拝の中心は「みことば」です。儀式中心でもなく、エンターテイメント中心でもなく、みことば中心の礼拝が捧げられる必要があります。

 

世界的な傾向として、丁寧にみことばを解き明かす講解説教よりも「聖書を題材にした“お話”」が好まれるようになっていますが、これは危険なことです。「主は仰せられた!」と、聖書の権威を土台にした説教が力強く語られそれを会衆が真摯に聞くという教会文化が回復される必要があります。

 

祈りに満ちた礼拝を捧げよう!

ソロモンは祈りました。礼拝の中心はみことばですが、それに対する私たちの「応答」も大切です。礼拝は一方的に話を聞く講演会ではないのです。ソロモンの祈りには「賛美」が含まれています。

 

私たちはつい願い事をするのに一所懸命になります。また、具体的な事柄を感謝することはしても、神のご性質を賛美するのを忘れがちかもしれません。ソロモンが両手をあげて捧げたこの祈りに学びたいと思います。

 

ソロモンはイスラエルの全集団の前で、主の祭壇の前に立ち、両手を天に差し伸べて、言った。「イスラエルの神、主。上は天、下は地にも、あなたのような神はほかにありません。あなたは、心を尽くして御前に歩むあなたのしもべたちに対し、契約と愛とを守られる方です。」(8:22-23)


ソロモンはこれに続いて「臨在と守り」を願い、さらに具体的に「〜〜の場合には、〜〜してください」とイスラエルの民のために「とりなしの祈り」を捧げます。とりなしの祈りとは簡単に言うと「誰かのために祈ること」「誰かと神との間をとりもつこと」です。


祝福に満ちた礼拝を捧げよう!

礼拝は私たちが「祝福される“ため”」のものではなく、あくまで「神の前にひれふし、神をほめたたえる」ためのものです。しかし、私たちが心からの礼拝を捧げるときに “結果として” 私たちは豊かに祝福されます。日曜日の礼拝では、締めくくりに「祝福の祈り」をします。私たちは礼拝の場から、神の臨在と祝福を携えて世界に出て行くのです。

 

まっすぐ立って、イスラエルの全集団を大声で祝福して言った。「約束どおり、ご自分の民イスラエルに安住の地をお与えになった主はほむべきかな。しもべモーセを通して告げられた良い約束はみな、一つもたがわなかった。私たちの神、主は、私たちの先祖とともにおられたように、私たちとともにいて、私たちを見放さず、私たちを見捨てられませんように。私たちの心を主に傾けさせ、私たちが主のすべての道に歩み、私たちの先祖にお命じになった命令と、おきてと、定めとを守るようにさせてください。私が主の御前で願ったことばが、昼も夜も、私たちの神、主のみそば近くにあって、日常のことにおいても、しもべの言い分や、御民イスラエルの言い分を正しく聞き入れてくださいますように。地上のすべての国々の民が、主こそ神であり、ほかに神はないことを知るようになるためです。」(8:55-60)

 


犠牲をいとわずに礼拝を捧げよう!

ソロモンの礼拝がどれほど大きなスケールであったか想像してみましょう。

 

ソロモンは主へのいけにえとして和解のいけにえをささげた。すなわち牛二万二千頭と羊十二万頭。こうして、王とすべてのイスラエル人は主の宮を奉献した。(8:63)


日曜日の礼拝(もちろん、日常生活の中でも礼拝を捧げることはできますが)に集うためには、時間を捧げ、他の予定を犠牲にし、ガソリン代や電車賃を捧げる必要があります。奉仕をする人は労力を捧げ、皆、献金を捧げます。それはひとえに、滅んで当然の私たちを救うために独り子を惜しまず与えてくださった神の恵みへの応答です。

 

それだけではなく、日々、神はもったいないほどの恵み、ありえない恵みを注ぎ続けてくださり、私たちがそれに気づかなくてもそれを止めることなく与え続けてくださっています。それに応えるため、私たちはどれほどの犠牲を払えば「もう十分」と言えるでしょうか。

 

神の払ってくださった犠牲を知らない人は、礼拝するために犠牲を払うことを惜しみます。また、礼拝するための犠牲を払う人は、神の払ってくださった犠牲の大きさをより深く知るようになるでしょう。


余韻が続くような礼拝を捧げよう!

この箇所を見ると、この礼拝が「喜びに満ちた祭り」であることを確認できます。静かに黙想するような礼拝があっても良いし、厳粛な礼拝も時には良いものです。しかし、「恵みを喜ぶ」という心はすべての礼拝の底流にあるべきです。

 

八日目に、彼は民を去らせた。民は王に祝福のことばを述べ、主がそのしもべダビデと、その民イスラエルとに下さったすべての恵みを喜び、心楽しく彼らの天幕へ帰って行った。(8:68)


「心楽しく…帰って行った」とあるように、礼拝がその場限りで終わってしまうのではなく、彼らは余韻を携えてそれぞれの場所へと戻っていきました。礼拝は生活の場でも続いていくのです!

 

 

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Glory in the Highest: Christmas Songs of Worship

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O Holy Night - Christmas Songs of Worship

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