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道奥 MICHINOKU せみなりお

聖書を学び、聖書で考え、聖書に生きる

第一列王13章

第一列王記

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13章では、二人の“預言者”を中心に不思議な出来事が展開されます。

 

ひとりの神の人が、主の命令によって、ユダからベテルにやって来た。ちょうどそのとき、ヤロブアムは香をたくために祭壇のそばに立っていた。(12:1)

 

神の人

 「神の人」ということばは、「預言者」とほぼ同じ意味に理解して構いません。モーセ、サムエルなどがそう呼ばれました。シェマヤ、ハナン、また、何人かの無名の預言者たちもそう呼ばれています。新約聖書においてはパウロがテモテをそう呼びました。

 

しかし、神の人よ。あなたは…正しさ、敬虔、信仰、愛、忍耐、柔和を熱心に求めなさい。(1テモテ6:11)


さらに、パウロはこう語ります。

 

聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。(2テモテ3:16-17)


私たち一人一人のクリスチャンが、霊感を受けた神のことばである聖書によって教えられ、戒められ、矯正され、義の訓練を受けて整えられるとき、「神の人」として良い働きをすることができます。もっと具体的には、神のことばを預かって人々に告げる「預言者」的な働きに用いられることができます。

 

神の人の働き

さて、南ユダの地から北イスラエルのベテルへとやって来た神の人は、北の王ヤロブアムの見ている前で祭壇に向かって声をあげます。それは、南ユダのダビデ王国家にやがて「ヨシヤ」という男の子が生まれ、彼が北王国の偶像礼拝とその祭司たちを打ち砕くという預言でした。この預言はこの後、約300年の時を経て「ヨシヤ王の宗教改革」によって実現します。


このようなことばを告げることは命がけでした。ヤロブアム王は、神の人に対して手を伸ばして彼を捕らえようとします。ところが、神の御手が働いて王の手はしなび(おそらく麻痺状態に陥り)てしまい、それをすることができません。彼は不思議な現象を前にして、恐れを覚えながら神の人に願います。

 

そこで、王はこの神の人に向かって言った。「どうか、あなたの神、主にお願いをして、私のために祈ってください。そうすれば、私の手はもとに戻るでしょう。」神の人が主に願ったので、王の手はもとに戻り、前と同じようになった。(12:6)


ヤロブアム王はもはや「私の神、主」とは語っていません。彼はヤハウェに対する信仰から完全に離れてしまっています。しかし、それでも王の懇願に応えて神の人は憐れみを示しました。神の人は、みことばをもって義を示しますが、憐れみを求められるならそれを拒絶することはしません。私たちもそのようなバランスを身に着けることを目指したいと思います。

 

たとえば、子育てにおいて「聖書的基準を示すこと」「ダメはダメと教えること」「罪に対しては報いを与えること」はとても大切なことです。しかし、子どもが誤りを認めて謝ったならば、親がいつまでも怒っていたり、不機嫌な態度を取ったりすることは避けなければなりません。これは難しいことですが、いつでも私たちに対してそのように臨んでくださる主の義と憐れみとを思いながら変えられ続けていきましょう。

 

神の人の純潔

ヤロブアム王は神の人と共に働いておられる主の力を目の当たりにして、「どうぞウチに来て食事をしてください。贈り物をさせてください」と願います。これは王の、神の人に対する買収行為といっても良いでしょう。彼はそれを「主の命令によって…」と語って、きっぱりと断ります。

 

主は、神の人が偶像礼拝に汚染されている北イスラエルで飲み食いをして悪影響を受けることから彼を守ろうとなさっていました。彼は主の仰せの通りに信仰的純潔を守って、ベテルに来たときの道は通らず、ほかの道を通って帰っていきました。


さて、ベテルには「ひとりの年寄りの預言者」が住んでいました。彼は、神の人に関心を抱き、その後を追いかけて行って声をかけます。年寄りの預言者は、神の人に「私といっしょに家に来て、パンを食べてください」と言いましたが、王の招きを断ったように神の人はこの誘いをも断ります。…しかし…

 

神の人の純潔の崩壊

 

彼(老預言者)はその人(神の人)に言った。「私もあなたと同じく預言者です。御使いが主の命令を受けて、私に『その人をあなたの家に連れ帰り、パンを食べさせ、水を飲ませよ』と言って命じました。」こうしてその人をだました。そこで、その人は彼といっしょに帰り、彼の家でパンを食べ、水を飲んだ。(12:18-19)


老預言者がなぜこのようなことをしたのかは定かでありません。宗教的腐敗に陥っていた北イスラエルの中で、この老預言者はかつての輝きを失ってしょぼくれていたのかもしれません。そして、神の人の力強さにあやかりたいと考えたのでしょうか。しかし、この老預言者は「主の命令」を持ち出して嘘を言い、神の人を騙しました。残念ながらそれによって神の人はまんまと惑わされて主からの命令を破ってしまいました。この後、この神の人は主から裁きを受け、無惨な死を遂げます。


キリスト教書店に並ぶ本を見ても、インターネット上でもそうですが、そこには「これが主の教えです」と銘打って、健全な聖書理解からはかけ離れた教えが満ちています。聖書の権威を否定するような自由主義神学の影響を受けたもの、世俗の心理学や成功哲学をそのまま取り入れた“神学”、また、再臨の日時を特定するような極端な終末論、現代の預言者による預言や癒しのミニストリーなどを強調する極端なカリスマ主義などなど…。


筆者も、極力そのようなものに惑わされないようにと祈りつつ働きをしていますが、識別は簡単ではありません。これまでに何度もブレたり、惑ったりしたことがあることを認めざるを得ません。どうか、皆さんの教会の牧師が「神の人」として歩むことができるよう祈ってください。そして、皆さんお一人お一人が、聖書によって整えられて「神の人」の一人となっていくことができるよう祈りつつ励んでいただきたいと思います


神の人を目指して歩もう!

今日の箇所から、私たちの目指すべき「神の人」(預言者的人物)のあるべき姿を考えることができます。神の人は、主からのみことばを真っすぐに語ります。主の力は彼と共に働きます。正義と憐れみのバランスをもっています。また、神の人は「“主からのことば”を騙(かた)る人物」に騙されないようにしなければなりません。


最後に33-34節を見てください。「ヤロブアムは悪い道から立ち返ることもせず、引き続いて、一般の民の中から高き所の祭司たちを任命し、だれでも志願する者を任職して高き所の祭司にした」とあります。本来、祭司はレビ族でなければなりませんし、訓練と準備の期間を経ることが必要なのです。

 

教会の中においても、本人が「用いられたい」と願っても「ちょっと待ってね」と線を引くことには意味があります。線を引かないとどうなるでしょうか。「目立ちたい」という動機で賛美の“奉仕”をする者や「自分の考えを伝えたい」という動機でメッセージの“奉仕”をする者たちで教会がいっぱいになってしまいます。目立つ奉仕をする前に、まずは目立たない奉仕や、リーダーシップと秩序を尊重する態度を学ぶ必要があるかもしれません。


ある教団の戦後史を読むと、戦後のキリスト教ブームの際には日曜学校の教師が足りず、信徒になって間もない人や求道者さえも“教師”として用いたことが記録されています。彼らは一体子どもたちにどうやって、何を、教えたのでしょうか…。それは後の時代の教会の停滞、衰退に大きな陰を落としているという分析もあります。


筆者が牧会させていただいている教会に、様々な訓練を経て「神の人」としての忠実な奉仕をしている方々がいることを感謝しています。そして、彼らが今もみことばによって変えられ続けている姿を見て、励ましを受けています。また、自ら進んで「訓練を受けたい」と志願する方々が常にいることも本当に嬉しいことです。

 

みことばを学びたいと願ってこんなに長い今日の記事を読んでいるあなたは、既に間違いなく「神の人」へと変えて用いられるプロセスへと導かれています! 読んでくださってありがとうございます!

 

 

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