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道奥 MICHINOKU せみなりお

聖書を学び、聖書で考え、聖書に生きる

第一列王18章

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約三年の干ばつを経て、主のことばがエリヤが臨みます。それは「アハブ王に会いに行きなさい。私は雨を降らせます。」という内容でした。

 

王のもとではオバデヤという預言者が宮内長官として仕えていました。彼は「非常に主を恐れて」(3節)いた人物で、王妃イゼベルが預言者の大量虐殺を行った際には100人もの預言者をかくまってその命を助けました。

 

アハブ王は、王自身が率いる部隊とこのオバデヤの率いる部隊とが二手に分かれて水を探しに行く計画を立てました。オバデヤはその水探しの旅の先でエリヤに出会います。

 

オバデヤがその道にいたところ、そこへ、エリヤが彼に会いに来た。彼にはそれがエリヤだとわかったので、ひれ伏して言った。「あなたは私の主人エリヤではありませんか。」 エリヤは彼に答えた。「そうだ。行って、エリヤがここにいると、あなたの主人に言いなさい。」(18:6-7)

 

何人かの注解者は、オバデヤがエリヤを「私の主人」と呼んでいるのに対し、エリヤはオバデヤに対して「あなたの主人(アハブ)に言いなさい」と言い返していることに注目しています。これは、オバデヤの信仰が不徹底であったことを示しているというのです。オバデヤは主を恐れていましたが、同時にアハブ王とイゼベル王妃を恐れていたのです。オバデヤという名前は「主のしもべ」という意味でしたが、彼はそうなりきれない部分を抱えていたようです。

 

さて、いよいよエリヤとアハブ王の対面のシーンです。

 

アハブがエリヤを見るや、アハブは彼に言った。「これはおまえか。イスラエルを煩わすもの。」エリヤは言った。「私はイスラエルを煩わしません。あなたとあなたの父の家こそそうです。現にあなたがたは主の命令を捨て、あなたはバアルのあとについています。」(18:17-18)

 

王に対しても、彼は毅然とした態度で「私ではなく、あなたとあなたの父の家(王家)が偶像礼拝によってイスラエルを煩わしているのです!」と語りました。そしてこの後、カルメル山上でバアルとアシェラの預言者850人とエリヤ一人の戦いが行われますが、エリヤは戦いの前にイスラルの民の代表たちにチャレンジを与えます。

 

エリヤはみなの前に進み出て言った。「あなたがたは、いつまでどっちつかずによろめいているのか。もし、主が神であれば、それに従い、もし、バアルが神であれば、それに従え。」しかし、民は一言も彼に答えなかった。(18:21)

 

「よろめく」ということばは、足を引きずってよろよろと歩くという意味の表現が用いられています。イスラエルの民は100%完全にバアル信仰へと移行してしまったのではなく、真の神であるヤハウェを拝みながら同時にバアル礼拝をしていたようです。つまり、宗教混淆(こんこう;区別するべきものをひとまとめにしてしまうこと)が起こっていたのです。ある場所では主を認め、ある場所では主を否定する歩みはよろよろとして一貫性を欠き、目的へとたどり着くことができません。

 

あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。(箴言3:6)

 

エリヤは、バアル・アシェラの預言者たちがいくら祈っても何も起きませんでした。

 

このようにして、昼も過ぎ、ささげ物をささげる時まで騒ぎ立てたが、何の声もなく、答える者もなく、注意を払う者もなかった。(18:29)

 

この節は「なく、なく、なかった」(not, not, not)を繰り返して、偽りの宗教の無力さを語っています。そして、エリヤは水不足の中、貴重な水を祭壇にぶちまけて退路を断ち、確信をもって祈ります。

 

「アブラハム、イサク、イスラエルの神、主よ。あなたがイスラエルにおいて神であり、私があなたのしもべであり、あなたのみことばによって私がこれらのすべての事を行ったということが、きょう、明らかになりますように。私に答えてください。主よ。私に答えてください。この民が、あなたこそ、主よ、神であり、あなたが彼らの心を翻してくださることを知るようにしてください。」(18:36-37)

 

エリヤは自分が主のしもべであり、みことばは真実であり、主が人の心をも変える力ある神であることを証明するために祈りました。私たちは何を明らかにしようとしているでしょうか。周りの人々に何を知ってほしいと願っているでしょうか。

 

主はエリヤ祈りに答えて天から火を下されました。

 

民はみな、これを見て、ひれ伏し、「主こそ神です。主こそ神です」と言った。(18:39)

 

この民の告白は、「私たちの神はヤハ(ウェ)」を意味する「エリヤ」の名前と一致します。「主のしもべ」という名のオバデヤは、主に仕えているのか王に仕えているのかどっちつかずでした。しかし、エリヤはその名の通り、主こそ神という信仰告白に生き、人々をもその告白へと導いたのです。

 

私たちの名は「クリスチャン」です。私たちもその名の通り「キリストに似たもの」として歩みたいと思います。これは私たち自身の強さや賢さによって実現するものではありません。しかし、生きた神ご自身が働かれるとき、その神の恵みによって私たちも強められ、変えられるのです。