道奥 MICHINOKU せみなりお

聖書を学び、聖書で考え、聖書に生きる

第一列王22章

f:id:mentoringservant:20141202123330j:plain

アラム(現在のシリヤ)に奪われた町を奪還するため、北イスラエルと南ユダが手を結ぼうとします。北の王はあの偶像礼拝を全面的に取り入れた悪王アハブ、南の王は主への信仰に生きたヨシャパテです。

 

 本来はつりあわない間柄なのですが、さまざまな政治的な思惑が働いて二人の距離が近くなってしまいました。私たちは誰と親密な関係を築くかを選ばなければなりません。

 
思い違いをしてはいけません。友だちが悪ければ、良い習慣がそこなわれます。(1コリント15:33)
 
二人の王は、アラムに攻めのぼるべきかどうか預言者に尋ねます。しかし、北イスラエルにいた四百人の預言者たちは、王の喜ぶことばかりを語る御用預言者たちでした。ゼデキヤという預言者は派手なパフォーマンスを用いて預言をし、その他の者たちもそれに同調して同じことを預言しています。彼らは皆、この戦争に賛成しました。この出来事は私たちにも警告を与えています。
 
真理が曲げられ、聴く人を喜ばせる“ため”の教えが語られることがありえます。真理よりもパフォーマンスや雄弁さが優先されることもあります。また、神のことばを語るべき者たちが時代の流れや多数派に同調してしまうこともあります。この時代、ミカヤという預言者だけがアハブ王に対しても耳の痛いことを語る存在だったようです。王は彼を嫌い、恐れています。私たちは次のみことばを思い出したいと思います。
 
…人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になる…(2テモテ4:3-4)
 
私たちは「健全な教え」に耳を傾けたいと思います。聖書が健全に解き明かされるとき、それは耳の痛い、心に刺さる内容であることが多いのです。そかし、それにしっかりと耳を傾けるとき、私たちは自分の気ままな願いに囚われている状態から解放され、真理の中での自由と喜びを味わうようになるのです。
 
 
南ユダのヨシャパテ王は敬虔な人物でしたから、北のアハブ王と大勢の御用預言者たちの関係を見て違和感を覚えたはずです。それで彼は何度か主のみこころを確認をしようとします。しかし、アハブ王に対しても臆することなく真理を語るミカヤさえもが、意外にも「攻め上って勝利を得なさい」(15節)と語りました。
 
ミカヤがどんな表情と口調で話したのかは分かりませんが、それを聞いてアハブ王は不満そうです。おそらくアハブ王は、ミカヤがここで主のみこころを語ったのではなく、敢えて皮肉を込めて御用学者たちと同じ意見を述べたことを感じ取り、「本当のことを言え!」と迫ります。
 
王が噛み付いてきたのを見て、ミカヤはようやく主のみこころを告げ始めます。それはイスラエルが惨敗して散り散りになって逃走するという内容でした。主なる神は、悪霊さえもご自身の支配の中で用いてアハブを惑わし、アハブが裁きを受けるように働きかけておられました。そのことをミカヤは詳しく告げるのですが、それでもやはり王は耳を傾けず、彼を監獄に閉じ込めようとします。
 
ミカヤは言った。「万が一、あなたが無事に戻って来られることがあるなら、主は私によって語られなかったのです。」そして、「みなの人々よ。聞いておきなさい」と言った。(22:28)
 
主のみことばは必ず実現する…。そのことを真っ直ぐに信じて、たとえ投獄されても主のみことばに仕えた預言者の姿に心を打たれます。日本においても戦時中にはこのような信仰を持った牧師、神学者、信徒たちが尋問されたり、投獄されて拷問の上に命を落としたりすることもありました。
 
彼らは政治闘争や平和運動を志していた訳ではありません。ただ主のみことばを真っ直ぐに信頼するゆえに、主なる神以外を拝むことはできないと考えて神社参拝を拒否したのです。聖書の約束を信頼するゆえに、主イエスの再臨と千年王国の成就を確信し、「まことの統治者は天皇陛下ではなく主イエスです」と告白したのです。
 
御用預言者の中心人物ゼデキヤは、ミカヤを殴りつけました。真の預言者は同業者たちから攻撃を受けます。残念なことですが戦時中の大多数のクリスチャン指導者たちが、上に書いたような信仰を持って投獄された少数派クリスチャンたちを「非国民」と見なして排斥をしました。そして、その指導者たちは神社参拝をし、献金で戦闘機を購入して天皇陛下に献上するなどの過ちを犯したのです。
 
これらのことについて現代の私たちが当時の指導者たちを非難することは簡単ですが、しかし、私がこれを記しているのはそのことのためではありません。ただ、主のみことばを真っ直ぐに信頼することの重要性を訴えたいのです。それが教会の生命線だということを訴えたいのです。
 
リビングバイブルの訳で、もう一度このみことばに目を留めましょう。
 
ミカヤはすかさず言い返しました。 「万が一にも、陛下が無事にお戻りになるようなことがあったら、神様が私によってお語りにならなかった証拠です。」 そして、そばに立っている人々に、「私が言ったことを、よく覚えておきなさい」と言いました。(22:18 ; リビングバイブル訳)
 
結局、アハブ王はミカヤの警告を聞いても悔い改めることなく、お人好しのヨシャパテ王をそそのかして戦いに出かけます。アハブ王は自分が敵に狙われているのを分かっていたので変装して身を隠し、代わりにヨシャパテに目立つ王服を着せます。しかし不思議とヨシャパテは守られ、敵が何気なく放った矢に射抜かれてアハブは死にます。
 
王は死んでからサマリヤに着いた。人々はサマリヤで王を葬った。 それから、戦車をサマリヤの池で洗った。すると、犬が彼の血をなめ、遊女たちがそこで身を洗ったが主が語られたことばのとおりであった。(22:37-38)
 
主のみことばは必ず成就します。主のみことばに対してどのようなスタンスを取るかが分かれ目になります。このことを心に刻んで、ひとまず第一列王記を閉じたいと思います。