あけましておめでとうございます。みなさん、神様、今年もよろしくお願いします。さてさて、これから読み始めるヨハネの福音書1章は、新年にとてもふさわしい箇所ですね。さあ、味わってみましょう。
あとがきを先に読む
著者のヨハネは、ガリラヤの漁師出身で、十二弟子の一人として選ばれ、その激しい性格から「雷の子」と呼ばれました。そして、主イエスの十字架と復活の目撃者となり、後に彼は「愛の使徒」と呼ばれるようになります。
ヨハネの福音書は、他の三つの福音書が「描写的」であるのに対して、「説明的」「神学的」であるとも言われます。つまり、主イエスが「何をしたか」よりも「どなたであるか」に焦点が合わせられた書であると言えます。
本を読むときに「あとがき」を先に読む人も結構いますよね。この福音書のあとがきに相当する部分を先に読んでみましょう。
しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。(20:31)
「イエス=神の子、キリスト」であるという福音を読者が信じ、それによって永遠のいのちを得ることが執筆の目的であると書かれています。そのことを意識しながら読み進めたいと思います。
ロゴス・キリスト論
初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。(1:1-3)
この「ことば」(ギリシヤ語で“ロゴス”)は、御子イエス・キリストを指しています。この箇所は「ロゴス・キリスト論」とも呼ばれ、主イエスがどんなお方であるかを神学的に詳しく言い表している素晴らしい箇所です。
主イエスは、天地創造の前からおられ、神とともにあり、神であったということが書かれています。また、この方はいのちを持ち、まことの光であり、神であるのに世に来られたと教えられています。これら一つ一つの内容は計り知れないほど深く、驚くべき内容です。
しかし、「神が世界を造ったなら、その神は誰に造られたの?」「神とロゴス(キリスト)は、別人格なのに同一存在ってどういうこと?」と、私たち人間の常識で測るならいろいろと疑問が出てきます。よりよく理解するために問いを持つことは良いことです。しかし、最終的には、理解できないから信じないということではなく、自分の理解を越えていても「聖書の証言をそのまま信頼する」という態度を持ちたいと思います。
聖書の真理よりも人間の理性を重んじる自由主義神学や、エホバの証人などの異端は、この箇所に記されているような主イエスの「超越性」「神性」を受け入れません。また、1世紀のユダヤ人たちも、自分たちのイメージするメシヤ像と異なっていたゆえに主イエスを拒みました。こう書かれている通りです。
この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。(1:10-11)
しかし、私たちは、できるだけ素直に「聖書が主イエスをどのように説明しているか」を読み取り、理解できなくともそのまま真っ直ぐに受け入れ、信じることに努めたいと思うのです。このお方を素直に受け入れる人々は、素晴らしい特権*1にあずかることが約束されています。
しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。(1:12)
人間の理解を越えた神を知る方法がどこかにあるのでしょうか。人間の側から神を分析し、究明することはできません。しかし、神の側からの啓示である聖書を通して主イエスを知るなら、私たちは神を知る*2ことができます。これは本当に素晴らしい特権です。
いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされた*3のである。(1:18)
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