これは主イエスの行われた最初の奇跡であり、主イエスが来られたことによって新しい時代が始まったことを告げる重要な意味を持っています。
※ 写真は「カナの婚礼教会」に向かう通り。
知っていただく祈りの幸い
それから三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、そこにイエスの母がいた。イエスも、また弟子たちも、その婚礼に招かれた。ぶどう酒がなくなったとき、母がイエスに向かって「ぶどう酒がありません。」と言った。(2:1-2)
ユダヤの結婚式は7日間、盛大に行われますが、そこにかかせないものが葡萄酒です。途中で無くなってしまうなら、花婿の恥でもあり、参列者への無礼にもなります。そのような中、母マリヤはおそらく給仕の取りまとめ役を担っていたようです。そして、主イエスに向かって「ぶとう酒がありません」と告げたのです。
誰よりも先に危機的状況に気がつき、「この婚礼が成功するように」「粗相があってはならない」と自分のことのように心配したマリヤの姿がここにあります。私たちは「救い主イエス様にぶどう酒の相談をするなんて」と、少し滑稽に思うかもしれません。
しかし、主イエスに打ち明けてはならないことがあるでしょうか。神ご自身に相談すべき事としてはならない事があるのでしょうか。そうではありません。
神に対して何を願うべきで、何を願わざるべきか、私たちには十分にわからないのですから、判断はイエス様がしてくださると信頼して、主に「知っていただく」「打ち明ける」「お話しする」ことが大切です。自分の生活のどんな些細なことについてであっても、祈りの中で主に知っていただく人は幸いです。
何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。(ピリピ4:6-7)
さて、マリヤが話しかけると主イエスはどんな反応をなさったでしょうか。
すると、イエスは母に言われた。「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。」(2:4)
おっと…なんと冷たい反応でしょう。一瞬たじろいだマリヤの姿が目に浮かびます。
時を待つことの幸い
私たちが祈ったからといって、神がすぐにそれに応え、私たちの要望をかなえなければならない理由はありません。私たちは何でも神様に打ち明けて良いのですが、しかし、あくまで主権を持っておられるのは神様であり、私たちが神様をコントロールするのではないことを覚える必要があります。主イエスは、一見冷たいとも見える態度で、マリヤにそのことを教えておられます。
母は手伝いの人たちに言った。「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」(2:5)
彼女は余計なことを言わず、主イエスが「主」であられるという事実の前に服します。そして、ただボーッと待つのではなく、その時にできる備えをするのです。
しかし、主よ。私は、あなたに信頼しています。私は告白します。「あなたこそ私の神です。」私の時は、御手の中にあります。(詩篇31:14-15)
みことばに従順する幸い
マリヤが手伝いの人たちに「何でもしてあげてください」と告げてしばらくして、主イエスは「水がめに水を満たしなさい」と言い、彼らがその通りにすると今度は「さあ、今くみなさい。そして宴会の世話役のところに持って行きなさい。」と言われました。
そして、彼らはその通りに「水」の入っているはずの器を持って世話役のところへ行きました。普通に考えると「ちょっと待ってください!!」と言いたくなるような主イエスの指示に、彼らは素直に従います。
私たちが神のことばに従おうとするのはなぜでしょうか。みことばの語ることが自分自身の考えに合致して、「そうそう。俺もそう考えていたよ」と思うからでしょうか。みことばに従うとなんらかの得があり、そのメリットゆえに従おうとするのでしょうか。
聖書の教えは、私たちの人生の中で培われた常識、現代社会の倫理観、損得勘定とぶつかり合うことがしばしばあります。しかし、私たちが聖書のみことばに従う理由は「それが神のことばであるから」で十分なのです。神様は、私たちがそのように生きる時「良いしもべだ。よくやった」と言ってくださるでしょう。
神の業のプロセスを体験する幸い
宴会の世話役はぶどう酒になったその水を味わってみた。それがどこから来たのか、知らなかったので、――しかし、水をくんだ手伝いの者たちは知っていた。――彼は、花婿を呼んで…(2:9)
みことばの通りに行っていく時、私たちは主のみことばの真実を知ることになります。多くの人々は普段から驚くべき神の恵みに取り囲まれて生きていますが、それに全く気が付きません。しかし、みことばに従う者たちは「これをなさったのはあのお方だ!これは驚くべき神の業だ!」ということを知っているのです。
たとえば、私たちは教会において「お客さん」の立場にたって「教会がもっと〜だったらいいのにねぇ」「教会のこういうところが好かん」と言うこともできます。しかし、「手伝いの人」の立場にたって、自分にできることを積極的に探し、「なんでもやります!!」という選択をすることもできます。
この出来事は、水瓶に象徴される「律法主義」「ねばならないの宗教」の時代の終わりと、ぶどう酒に象徴される「十字架の福音」「恵みに応答せずにはいられない信仰」の時代を指し示しています。
この新しい時代の完成を目指し、そして、主イエスと教会との「婚礼」の成就を目指して、私たちはマリヤや手伝いのしもべたちのように主に仕えていきたいと思います。