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道奥 MICHINOKU せみなりお

聖書を学び、聖書で考え、聖書に生きる

ヨハネ3章1-21節

ヨハネ

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2章の後半にはこのようなことが記されています。
 

イエスが、過越の祭りの祝いの間、エルサレムにおられたとき、多くの人々が、イエスの行なわれたしるしを見て、御名を信じた。 (2:23)

 

この「多くの人々」は、真に主イエスを受け入れた信仰者だったでしょうか。次の節を見るとこの問いの答えが分かります。

 
しかし、イエスは、ご自身を彼らにお任せにならなかった。なぜなら、イエスはすべての人を知っておられた…(2:24)
 
この「お任せにならなかった」ということばは、別な訳では「信用なさらなかった」とされています。つまり、人々は主イエスを信じたと書かれているけれども、イエス様はその人々を信用しなかったということです。なぜなら、「イエスはすべての人を知っておられた」から。
 
人々の心にあったのは本物の信仰ではなく、イエス様が自分に何をくれるか、イエス様についていくとどんな得があるのか、イエス様にどんな利用価値があるかといった思いだけだったようです。彼らは確かに主イエスに対して好意的であったかもしれないし、自分を「信者」だと思っているかもしれませんが、真の救いに与っている信仰者ではなかったのです。
 
では、真の救いとはなんでしょうか。真の信仰者とはなんでしょうか。それが3章のテーマです。ここから、真の信仰者のしるしを見ていきたいと思います。
 

主イエスのことばを聞いて学ぼうとする

さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。この人が、夜、イエスのもとに来て言った。(3:1-2)
 
「さて」ということば(「しかし」と訳することもできる)で、2章に記されている「多くの人々」と、ここに登場するニコデモとが対比されています。彼は夜遅く、一人でイエス様のもとにやって来たました。
 
彼は「ユダヤ人の指導者」でした。サンヘドリンという、ユダヤ人の国会でもあり最高裁判所でもある評議委員会の中心人物であり、律法学者の養成学校(最高の教育機関)の校長で、しかも、非常に裕福でした。彼は有名人でしたから、人目を避けてこっそり夜にやって来たのでしょう。彼はおそらく自分の息子ほどの年齢であった主イエスを「先生(ラビ)」と呼び、主から学ぼうとします。
 
…信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。 (ローマ10:17)
 
何か神秘的な体験をしたとか、教会に行ったら人々が温かく接してくれて居心地が良かったとか、そういったことが必ずしも悪いわけではありませんが、しかし、だからとってそれらが真の信仰を保証するわけではありません。真の信仰は聞くことから始まるのです。聖書に関心もなければ読むつもりも学ぶつもりもない人物が「私はクリスチャンです」と言っても、それは全く信用なりません。
 
 

聖霊によって超自然的に産んでいただく

イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(3:3)
 
「まことに、まことに」というのは「アーメン、アーメン」という言葉で、主イエスが特に重要なことをおっしゃる時の前置きです。
 
ここで「新しく…」と訳されている言葉は「上から」とも訳せます。また、「生まれる」は受け身形で「産んでもらう」(be born)という表現です。ユダヤ人の知識人の頂点にいたニコデモも、主イエスのおっしゃることがすぐには理解できませんでしたが、主は徐々に核心に迫っていかれます。
 
イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。(3:5)
 
この「水」が何を意味するかは様々な意見があり、洗礼を意味するとか、象徴的に「みことば」を意味するとか、いろいろな説がありますが、文脈から見て「母の胎(の羊水)から生まれる」という理解をとるのが良いと私は考えています*1。つまり、水によって生まれるということは自然な誕生のこと、そして、御霊によって生まれるということは超自然的な誕生のことと言えるでしょう。
 

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真の信仰者になるためには、母親から生まれたままの自分で、いくら努力しても、いくら考えても、いくら工夫しても、いくらコネを使っても、ダメだということです。超自然的に、上(神様)から産んでいただいて、神のこどもとされる必要があるのです。これを神学用語では「新生」と言います*2
 
あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」(3:7-8)

 

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聖霊は思いのままに働かられるので人間にはコントロールできません。そして、もちろん聖霊は目にも見えないし、私たちの理解を越えたお方です。しかし、その聖霊の働きの “結果” をある程度キャッチすることはできるということが言われています。つまり、超自然的に新しく上から生んでいただいた真の信仰者には、聖霊の働きの“結果”が現われ、私たちはそれを見て取ることができる…ということです。その“結果”とは何でしょうか。
 
 

聖書のいう通りの「主イエス像」を受け入れる

9節から15節には、主イエスご自身がこの世界を創造された唯一の神ご自身であられることが自己紹介されています。そして、その神が人となってこの地上に降りてこられたのが主イエスだという宣言がなされ、神の国と人とを隔てている罪を解決するため、主イエスが十字架に架けられることが語られています。さらに聖書は、主イエスがその十字架の死から三日目によみがえり、天にのぼられ、今も生きて働いておられ、いつの日か悪を完全に裁き、全てを完成させるためこの地上に戻って来られるとも伝えています。
 
これはとんでもない内容です。こんなことを普通のまともな人間が、“自然”に「信じてみよう」と受け入れるでしょうか。私たちがもしこのような内容をまともに信じているというなら、それは、私たちに聖霊が働いてくださったことの「結果」と言えるでしょう。
 

新生した者は成長する

そしてしばらくの時を経て、ニコデモが自分の地位や評判もかなぐり捨てて、主イエスの弟子であることを明らかにしたように、新生した者は「生き方の変化」「キリスト者としての成長」も経験することになります*3。私たちの成長が仮にゆっくりであっても、また一進一退であっても、私たちの内に働かれる聖霊を信頼してください。私たちは必ず変えられていきます。
 
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(3:16)
 

*1:5節と6節が同じ事柄を扱っているするなら、ここで「水=肉)」という式が成り立つ。少なくとも、主イエスはここで全く洗礼については扱っておられない。

*2:私たちの教会は「バプテスト」という教派の歴史的遺産を受け継いでいる。このグループは「教会=新生した者たちの群れ」という考えを重んじてきた。ゆえに、クリスチャンの家庭に生まれた子どもたちを自動的に信者にする「幼児洗礼」を拒否し、本人が自覚的に信仰をはっきりと言い表し、新生のしるしが見て取れるようになってからバプテスマを施してきた。どんなにその人がキリスト教に好意を持っていても、親がその人の洗礼を願っていても、その人自身の信仰が明確でないのに洗礼を施すならば、教会は徐々に「クリスチャンとクリスチャンであるかどうかがはっきりしない人々」の群れとなり、弱体化する。これは排他的なエリート主義ではない。新生者の群れである教会は、その新生が一方的な上からの恵みであることを畏れつつ感謝し、その恵みに一人でも多くの人々があずかれるよう願って、少しも妥協することなく福音の真理を証しするのである。

*3:「洗礼を受けたころは燃えていたが、徐々に“信仰が冷め”て、今ではすっかり“卒業”してしまった」といった話を聞くことがあるが、その方は、新生したのに信仰がなくなってしまったのではなく、かなりの確率で未だ新生していないのである。その方が真に聖霊による新生を経験できるよう祈りつつ、福音を伝える必要がある。