読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

道奥 MICHINOKU せみなりお

聖書を学び、聖書で考え、聖書に生きる

ヨハネ8章21-59節

f:id:mentoringservant:20150121195918j:plain

世の光である主イエスは、この箇所で非常に内容の濃い、長い説教を語っておられます。特に扱っておられるテーマは「人間の罪という闇」(21-40節)、「悪魔という闇」(41-50節)、「死という闇」(51-59節)です。
 

この三つの大きな闇に対して、主イエスご自身は「」であり「答え」です。

 

罪という闇という主イエス

いくら自分は自由だ、誰の奴隷でもないと言い張っても、実は「罪を行なっている者はみな、罪の奴隷」(34)なのです。聖書の「罪」ということばは「的外れ」という意味ですが、こういう言い方もできるでしょう。「リンゴの実をつけるのは、リンゴの木です。的外れな生き方という実を結ぶ人は、的外れな人間です。」

 

嘘をつく人、情欲を抱く人、イライラする人、怠ける人、他人に親切にできない人、不正をしたり誤魔化したりする人、何かに依存している人、コンプレックスを抱いている人などなどは、みな、罪の奴隷です。このようなことと一切無縁の人がいるでしょうか。

 

すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず…(ローマ3:23)

 

もし、主イエスという光を見出さなければ、人は「自分の罪の中で死にます」(21, 24)。しかし、もしこの光を見出すならどうなるでしょうか。上のローマ人への手紙の箇所はこう続けて教えています。

 

ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。(ローマ3:24)

 

悪魔という闇と主イエスという光

 

もし、主イエスという光を見出さなければ、その人は「悪魔から出た者」(44)として生き、死ぬことになります。悪魔は「偽り者であり、また偽りの父」(45)ですから、その人は真理ではないことを本当だと信じて歩むようになります。
 
しかし、もしその人が主のことばを信頼し続けるなら、その人が主の弟子あることが証明され、その人は真理を知り、真理はその人をより自由にし続けます(32)。
 
ここでいう「自由」な状態は自分勝手や自己中心という意味ではなく、「喜んで正しいことができるようになる状態」です。そして、その自由を身につけるには、じっくりと時間をかけて聖書の真理を学び、真理を心に植え付け、真理を実践する訓練を絶え間なく続ける必要があります。自由ということばは、「成熟」「熟練」「しなやかさ」「秩序ある美しさ」とも言い換えられるかもしれません。
 
たとえば、スキーを自由に滑るということは、他人の迷惑や安全も顧みず、勝手気ままに山の頂上から猛スピードで滑り降りることではないでしょう。人に怪我をさせたり、滑走禁止のエリアに入り込んだりすることが自由なのでしょうか。
 
むしろ、自由にスキーをするとは、自分の筋肉と重心とスキー板とを適切にコントロールし、スピードや方向を自在に変え、景色を楽しみ、風を切る感覚を喜びながら、安全に美しく滑ることではないでしょうか。そのためにはトレーニングが必要ですね。熟練するなら、怪我をして倒れている人を見て、自分の楽しみを一時的に後回しにしてその人を救助することもできるでしょう。
 

死という闇と主イエスという光

 
もし、主イエスという光を見出すなら、その人は主のみことばを信頼し続けるようになります。その人は「決して死を見ることがありません」(51)。旧約聖書の偉人たちも肉体的にはすでに死にました。しかし、「アブラハムが生まれる前から、わたしはいる」(58)とおっしゃるお方を信頼し、このお方のことばにとどまるならば、肉体が死んでもそれで終わりではありません。永遠の命が約束されているのです。しかし、このお方を拒むなら、罪の問題も解決せず、悪魔の支配下にいるままに肉体の死を迎え、永遠の死、滅びを迎えることになります。
 
主は「アブラハムのわざを行ないなさい」(39)と言われました。アブラハムのわざとは何でしょうか。アブラハムの偉大な業績を真似なさいと言われるなら、私たちは尻込みしてしまうでしょう。アブラハムのような有名人になりなさいと言われても、まず無理でしょう。アブラハムのわざとは、そのような行い・業績ではありません。
 
もしアブラハムが行ないによって義と認められたのなら、彼は誇ることができます。しかし、神の御前では、そうではありません。聖書は何と言っていますか。「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた」とあります。…何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。(ローマ4:2-3,5)
 
アブラハムは神を信じ、それが彼の義とみなされました。それと同じことです。ですから、信仰による人々こそアブラハムの子孫だと知りなさい。(ガラテヤ3:6-7)
 
アブラハムのわざとは「信仰」であり、信仰とは「神の約束(ことば)への信頼」です。疑いや不信仰という私たちの古い性質は、残念ながら、確かに生涯つきまとってきます。しかし、まだ未成熟であってももう既にあなたの心に主イエスへの信仰・信頼が与えられているのではないでしょうか。そうであるならば、罪と悪魔と死という闇がすでに解決していることを告白し、その信仰が確実に育つことを期待しながら歩もうではありませんか。
 

 

キリストの恵みに憩う―ヨハネの福音書のメッセージから

キリストの恵みに憩う―ヨハネの福音書のメッセージから

 

 

【文庫】 日本人に贈る聖書ものがたり ? メシアの巻 上 (文芸社文庫)

【文庫】 日本人に贈る聖書ものがたり ? メシアの巻 上 (文芸社文庫)

 

  

【文庫】 日本人に贈る聖書ものがたり ? メシアの巻 下 (文芸社文庫)

【文庫】 日本人に贈る聖書ものがたり ? メシアの巻 下 (文芸社文庫)

 

 

新聖書辞典新装版

新聖書辞典新装版