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道奥 MICHINOKU せみなりお

聖書を学び、聖書で考え、聖書に生きる

ヨハネ9章

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生まれつきの盲人の癒しの記事ですが、ここにはいくつかの重要な霊的なテーマが含まれています。
 

メシヤの到来を告げる奇跡

 
ひとつは、このような奇跡が、預言されていたメシヤの到来を証しする特殊なものであったことです。たとえば、イザヤはこのように預言していました。
 
…神は来て、あなたがたを救われる。そのとき、目の見えない者の目は開き、耳の聞こえない者の耳はあく。(イザヤ35:4b-5)
 
福音書に記されている奇跡の目的は、奇跡そのものを起こすことではなく、主イエスが預言通りに到来したメシヤであることを証明することにありました。
 
 

苦難の意味

 
生まれつきの盲人を前にして、弟子たちは「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」(2)と心ない質問をします。しかし、これが当時の一般的な認識であり、病気等などはその人か親か先祖の罪が原因だと考えられたのです。日本においても先祖の祟り、バチが当たったなどの見方があるのと似ています。しかし、主イエスは言われます。
 
「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。」(9:3)
 
なんという力強い宣言でしょうか。我々人間は災いの原因探しや犯人探しをしようとしますが、聖書はそうではありません*1。「神のわざがあらわれるため」「神は偉大なみわざを行い、この災いさえも用いてご自身の素晴らしさを表してくださるのだ」と宣言するのです。
 

霊的な盲目の癒し

 
主イエスは、地面につばきをし、泥を作り、それを盲人の目に塗り、シロアムの池で洗うように指示します。彼がその通りにすると目が見えるようになりました。しかし、癒しはそこでは終わらず、彼は霊的な盲目の癒しを段階的に体験していきます。
 
彼は最初、主イエスを「イエスという人」(11)とだけ認識していました。しかし、その後「あの方は預言者です」(19)と告白します。さらに彼はユダヤ人指導者から尋問を受けながら、堂々とこう語ります。
 
「盲目に生まれついた者の目をあけた者があるなどとは、昔から聞いたこともありません。もしあの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできないはずです。」(9:32-33)
 
これを聞いたユダヤ人は怒って彼を追放しようとするのですが、彼はそこで主イエスと再会します。私はこの箇所を読んで、胸が熱くなるのを止められません。
 
イエスは、彼らが彼を追放したことを聞き、彼を見つけ出して言われた。「あなたは人の子を信じますか。」その人は答えた。「主よ。その方はどなたでしょうか。私がその方を信じることができますように。」イエスは彼に言われた。「あなたはその方を見たのです。あなたと話しているのがそれです。」彼は言った。「主よ。私は信じます。」そして彼はイエスを拝した。(9:35-38)
 
ユダヤ人たちは「私たちが目が見える」(41)と言いながら、完全に霊的な盲目状態でした。彼らの罪は残り、やがて裁かれます。しかし、この生まれながらの盲人は、視力を与えられただけではなく、霊的な目を開かれ、メシヤを信じ、礼拝する人となりました。彼の罪は取り去られ、神の国と永遠の命が彼のものとなったのです。
 
主イエスに出会った後も私たちの「霊的視力矯正」は生涯続いていきます。パウロはこう祈りました。
 
…あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、 また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。(エペソ1:18-19)
 
そして、やがて主イエスと直接にお会いする時には次の箇所のようになり、分からなかったことや見えなかったことも完全に理解するようになるのです。
 
今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。(1コリント13:12)
 
その日を目指し、「私の霊の目をもっと開いてください」という祈りをもって、霊的な識別力・視力を高めていただく歩みを続けていきましょう。
 

 

 

 

苦しい時は必ず過ぎ去る

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光なき時も: ?聖書が語る苦しみの日の慰め?

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 ※考えを整理するために、手書きで書きまくる!

 

 

*1:突き詰めれば、この世界に災いがあるのは、アダムにおいて人間が罪を犯し、全人類と世界が堕落したためである。聖書は、我々すべての人間が時空を超えてアダムと一緒に罪を犯したと語っている(ローマ5:12参照)。また、人は蒔いたものを刈り取るという法則も有効である(ガラテヤ6:8-9などぉ参照)。しかし、特定の災いの原因を、特定の個人や集団の特定の罪に安易に関連づけることは控えなければならない。特に先天的な病気や障害、天変地異などについてはそうである。