道奥 MICHINOKU せみなりお

聖書を学び、聖書で考え、聖書に生きる

ヨハネ17章

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いよいよ十字架を前にして、イエス様は特に弟子たちのために祈りを捧げられます。それが17章全体に記録されています。

 

永遠のいのちとは?

 「…永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」(3節)

 

永遠のいのちとは何でしょうか。それは、ただ単に死なないことや永遠に生き続けることだけを意味するのではありません。永遠のいのちの本質は、神ご自身を知る(体験する)ことなのです。

 

ちょっと卑近なたとえですが、ディズニーランドの本質が「チケットをかって入場し、場内で時間を過ごすこと」ではなく「時間が経つのも忘れて夢の国を味わい、楽しみ、驚き、興奮すること」である…というと少しわかりやすいかもしれません。

 

一つとなるための祈り

 

この長い祈りの中心は、永遠のいのちの中で、また、神の御名(本質)の中で、弟子たちが「一つになること」でした。

 

「聖なる父。あなたがわたしに下さっているあなたの御名の中に、彼らを保ってください。それはわたしたちと同様に、彼らが一つとなるためです。」(17:11)

 

ここで言われているのは、個人の強力なリーダーシップのもとに一つになることでもなく、お互いの利害関係や好みによって一つになることでもなく、また単にその場の和を保つために同調することでもありません。

 

ぞれぞれが神ご自身の本質を知り、神ご自身を信頼するようになり、その神を愛する心によって一致するということが言われているのです。それは、エペソ人への手紙では「信仰の一致と神の御子に関する知識の一致」(4:13)と書かれています。この一致は、何のための一致でしょうか。

 

「それは、あなたがわたしを遣わされたことと、あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたこととを、この世が知るためです。」(17:23)

 

キリストを信じる者たちが、神を深く知るゆえの一致を体験していくとき、それを通して人々はキリスト(神ご自身)を知り、その愛を知るようになります。教会は、そこに集う人々の満足の“ため”の仲良しグループではありません。

 

もし、教会の中に、神を知ることによる真の一致と愛の交わりがあるなら、その教会は必ず“外向き”になり、一人でも多くの人々がその交わりに加わるよう願って動き出すのです。