ヨハネ18章
この箇所には、たくさんの「わたしたち」が登場します。
主イエスに「それはわたしです」(18:6)と言われて驚き、あとずさりして倒れた兵士たち…。
焦点のずれた勇敢さで剣を振り回し、「父(なる神)」(18:11)のご計画を妨げようとしたペテロ…。
今度は、保身のために「そんな者(主イエスの弟子)ではない」(18:17)と語った臆病なペテロ…。
こともあろうに、神ご自身であられる主イエスを裁こうとして尋問する大祭司…(18:19)。
主イエスに平手打ちをした役人…(18:22)。
主イエスがただ者ではないと感じながら、誤った決断へと流されていくピラト…。
バラバを釈放せよと叫ぶ群衆…(18:40)。
そして、主イエスの代わりに釈放された強盗バラバ …(18:40)
このそれぞれがあなた自身に重なるのではないでしょうか。私もそうです。
主は、これらの侮辱と暴虐を甘んじてお受けになりました。一体何のために?
それは、私たちの代わりに罪人として裁かれ、私たちに赦しと義とをもたらすためでした。
神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。(2コリント5:21)
この神の義にあずかった私たちは、どう生きていったら良いでしょうか…。
確かに、私たちは未だに未熟で、罪の性質を引きずっていますし、日々赦しを必要としています。しかし、忘れてはなりません。私たちの「人生の目的」はもうすでに180度変わったのです。私たちの人生は、私たちのためのものではなくなったのです。
キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。(2コリント5:15)
主は私たちが、主のために生きる「弟子」となることを願い、それを思い描きながら十字架の苦しみを忍ばれました。
私たちの「今」は、キリストの血潮の結晶です。
そのことを思いながら共に、主ご自身の喜びのために生きようではありませんか。
※ 動画の2:18:55周辺からが今日の箇所