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道奥 MICHINOKU せみなりお

聖書を学び、聖書で考え、聖書に生きる

ヨハネ19章

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いばらの冠を被らされた主イエスに向かって、人々は「十字架につけろ」と叫びました。祭司長や役人たちがその中心におり、そこでは買収、扇動が行われていたことでしょう。踊らされる方も、踊る方も、いずれにせよ、自分では決して償うことのできない罪を犯しています。彼らは神を殺そうとしていたのです。
 

ローマから派遣されていた総督ピラトは、自身の政治的後ろ盾であった人物の失脚によって当時不安定な立場にありました。彼は主イエスを釈放しようと努力しましたが、最終的には自分の身を守るためにユダヤ人たちの要求に応じたのです。

 

自ら進んで

そこでピラトは、そのとき、イエスを、十字架につけるため彼らに引き渡した。…そして、イエスはご自分で十字架を負って、「どくろの地」という場所に出て行かれた。(19:16-17)
 
主イエスは自ら十字架を背負い、自らゴルゴタの丘に向かって足を進められました。十字架の死は、主イエスにとって「受け身」ではなく、父のみこころを成し遂げるため「自ら進んで」行われた業でした。
 
(キリストは…)自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。(1ペテロ2:22)
 
兵士たちは主イエスの身ぐるみを剥いで分け合いました。裸でさらし者にされた主イエスを信じる者たちは、このお方が本来まとうはずの義の衣を着せていただくことができるのです。なんというもったいない恵みでしょうか。
 

十字架の上のことば

主イエスは十字架の上で七つのことばを話されましたが、ヨハネの福音書にはそのうちの三つを記しています。
 
十字架の苦しみの中でも主は母マリヤを想い、「ここにあなたの息子がいます」と弟子ヨハネに母のケアを託しました。と同時に、このことばを通して主はマリヤとの人間的なつながりを断っておられるとも理解できます。カトリックでは伝統的にマリヤを「神の母」とし、ある種の崇拝をする傾向がありますが、それは誤りです。
 
また、「わたしは渇く」ということばは、もちろん肉体的な渇きを表す言葉でもあり、神から切り離された霊的渇き、また、死の世界における渇きさえも指し示している言葉です。主が味わわれた渇きゆえに、私たちにはいのちの水がもたらされるのです。
 
さらに、主は「完了した」と言われました。これはビジネス用語で「完済された」という意味の言葉です。私たちの支払うべき罪の代価が、主イエスの命によって完全に支払われたのです。主イエスを信頼する者たちは、過去、現在、未来のすべての罪を赦された者として歩むことができます。
 
救われた後も確かに私たちは罪を犯し続けてしまう者ですが、しかし、赦しの恵みの大きさに触れる中で、罪の中にとどまりたいとは思わなくなります。そして、感謝、喜び、主への愛と献身が増し加えられていきます。
 
 

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