道奥 MICHINOKU せみなりお

聖書を学び、聖書で考え、聖書に生きる

ヨハネ20章

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十字架から三日目の日曜日、主イエスは復活されました。墓は空っぽで、遺体をくるんでいた亜麻布と頭に巻かれていた布だけが残されていました。復活の主はマグダラのマリヤに現れ、その後、弟子たちの前に姿をお見せになります。
 

平安と派遣

 

その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」(20:19-21)
 
「死んだと思っていた主がよみがえられた。良かった!これで安心だ!」で終わりではありません。復活の主は、弟子たちを派遣されます。私たちは「平安」というものを、私たち自身の心の快さと結びつけて考えます。不安は不快なものですからそれを取り去ってほしいし、あくまで自分のために安心が欲しいのです。
 
しかし、主のお与えになる平安は、私たちを使命へと押し出すものであり、使命を果たそうとする中で味わう苦難や葛藤の中でも心にとどまり続けるものです。主がみことば従って歩みを進めるとき、「不安だけれど平安がある」という不思議な心を味わうのです。
 
 
聖霊によって生み出される「教会」
 
そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」(20:22-23)
 
これは、この瞬間に弟子たちが聖霊を受けたということではなく、やがて起こるペンテコステ(聖霊降臨)の出来事を指し示しています。主は、人々の罪を解決することができる唯一の答えである「福音」を宣べ伝える働きを、聖霊降臨によって誕生する「教会」に託されたのです。
 
「教会」は単なる宗教団体ではなく、信者のためのサロンや仲良しクラブでもありません。罪によって堕落してしまった世界を神ご自身が贖われる働きを託されている「唯一の存在」なのです。
 
ですから、私たちは教会を愛し教会の一部となっていることを喜び教会が力強く建て上げられるために仕える必要があります。そのような歩みを私たちが志す時、神の平安はいつも私たちとともにあります。
 
 

信じて、イエスの御名によっていのちを得るため…

 
「見ないと信じない」と語ったトマスに対して、主はご自身をお見せになりました。と同時に、「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」と言われました。見ないで信じる信仰こそ、主が喜ばれる本物の信仰です。
 
と同時に、私たちはたくさんの信じるべき理由を実際に見せられているのではないでしょうか。自然を見たり、人生の中に起こる様々なことを見たりする中でも、私たちは心の目を開くならば主を信じる理由を見出すことができます。
 
何よりも、私たちには「聖書」が与えられています。このみことばが、私たちの信仰をスタートさせ、育み、見なくても信じる確信へと育て、他者にも影響を与えるような命あふれるものへと変えるのです。
 
…これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。(20:31)

 

 

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