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道奥 MICHINOKU せみなりお

聖書を学び、聖書で考え、聖書に生きる

第二列王記2章

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エリヤは、創世記に記されているエノクと同じように、生きながら天に上げられます。その前に、彼は弟子のエリシャに対して「ここにとどまっていなさい」と語りました。

 

それに対して、エリシャは「主は生きておられ、あなたのたましいも生きています。私は決してあなたから離れません。」(2節)と答えます。その後、預言者仲間が彼のもとに近づき、エリヤが取り上げられることを知っているかと尋ねますが、エリシャは「知っているが、黙っていてください」と答えます。このようなやりとりが繰り返されます。

 

この出来事の背景として、エリヤは、その謙遜さゆえに、自分が栄光のうちに天に上げられる姿を見られることを望まなかったことを指摘する学者もいます。また、この一連の出来事は、後継者となるエリシャの信仰をテストするものであったことも指摘されています。特に後者については、続きの箇所を見ていくとよく分かります。

 

二つの分け前を求める後継者

エリヤはエリシャを伴ってヨルダン川を渡ります。その際、外套(コート、マント)を丸めて水を打ち、水を分けるという奇跡を起こしたのです。エリヤが「あなたのために何をしようか」と尋ねると、エリシャは「霊の、二つの分け前」を求めました。別訳では「あなたの霊の中にある二つの分」となっています。

 

これは長子が遺産を受け継ぐ時の決まり文句でもありますが、エリシャが、預言者として用いられる上で必要な「霊的祝福」を切に求めたことを示しています。実際、エリシャがこの後に行った奇跡は、師であるエリヤの行った奇跡の二倍の数でした。

 

私たちの心は何を切に求めているでしょうか。「願い事を言ってみなさい」と言われた時、とっさに出てくる答えはなんでしょうか。いつの間にか、自分の夢の実現、自分の願望の成就、自分の抱える問題の解決ばかりを求める心になっているかもしれません。

 

しかし、自分中心の願いに集中している限り、自分自身も貧しくなっていくのです。エリシャのように主に用いられることを願い、そのために必要な霊的祝福を求めようではありませんか

 

エリシャの要望を受けたエリヤは「むずかしい注文」だと言います。なぜなら、霊的な祝福はエリヤが勝手に授けられるものではなく神ご自身から来るものだからです。この後、エリヤは火の戦車と火の馬が現れる中、たつまきに乗って天に上げられました。そして、エリシャはそれを確かに見て、テストに合格します。神はエリシャの求めた霊の分け前を授けてくださったのです!

 

主の臨在を求める後継者

エリシャは師にならって外套で水を打ちましたが、最初は何も起こらなかったようです。彼は「エリヤの神、主はどこにおられるのですか」(14節)と言います。これは「エリヤの神、主よ、どうか私に臨んでください」という祈りでもあります。主は祈りに応えてそこに臨み、水を分けてくださいました。預言者の仲間たちも「エリヤの霊がエリシャの上にとどまっている」(15節)と言いました。

 

主に用いられようとする中で、私たちは試練に直面して「主はどこにおられるのだろう」と思うことがあります。しかし、主は「主よ、ここに臨んでください」という祈りに応え、働いてくださいます。主は私たちを通して水を分け、汚染された水を浄化してくださるお方です。

 

神への恐れを呼び起こす後継者

この章の終わりに記されているエピソードはギョッとするような内容です。現代の日本の常識を当てはめて理解しようとするなら、「エリシャはとんでもない奴だ!」という話になるでしょう。しかし、聖書は「著者の意図通り」に読む必要があります。真の著者である神はこの箇所で何を伝えようとしておられるのでしょうか。

 

まず、この箇所に出てくる「小さい子どもたち」ということばは、多くの学者たちが「若者たち」と訳すべきであると指摘しています。また、「(成人の)未熟者」とも訳せることばです。このエピソードは、無邪気な子どもたちがよく分からずに失礼なことを言ったという出来事ではなく、愚かで不遜な若者たちが意図的に預言者を嘲った出来事なのです。

 

この出来事の舞台となったベテル(「神の家」の意味)では、金の子牛が偶像として盛んに礼拝されていました。創世記においてヤコブ(別名イスラエル)が石を枕にして、天使がはしごを上り下りする夢を見た場所です。

 

ヤコブは眠りからさめて、「まことに主がこの所におられるのに、私はそれを知らなかった」と言った。彼は恐れおののいて、また言った。「この場所は、なんとおそれおおいことだろう。こここそ神の家にほかならない。ここは天の門だ。」(創世記28:16-17)

 

このような意味深い場所において、主を認めず、主を恐れない偶像礼拝がはびこっており、だからこそ、若者たちは平気で主のお選びになった預言者を侮辱したのです。そのような冒涜には報いが与えられます*1。私たちは、主に対する「恐れ」というものを子どもたちや若者たちに教えていかなければなりません。大人たちが神を軽んじておる姿を子どもたちに見せ、子どもたちがそれに倣って神を恐れない者となり、まことの命を損じることがあってはならないのです。私たちはそのようなメッセージを厳粛な思いをもってこの箇所から学ぶことができます。

 

若者をその行く道にふさわしく教育せよ。そうすれば、年老いても、それから離れない。(箴言22:6)

 

*1:ただし、これは律法の時代のイスラエルに適用される原理で、主の十字架を経た「恵みの時代」においては「自らを呪う者のために祝福を祈る」という原理を重んじるべきである。