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道奥 MICHINOKU せみなりお

聖書を学び、聖書で考え、聖書に生きる

第二列王記9-10章

第二列王記

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少し時間を巻き戻して、第一列王記19章を見てみましょう。あのイゼベル王妃を恐れて逃亡していたエリヤに以前主はこのように語られていました。

 

主は彼に仰せられた。「さあ、ダマスコの荒野へ帰って行け。そこに行き、ハザエルに油をそそいで、アラムの王とせよ。また、ニムシの子エフーに油をそそいで、イスラエルの王とせよ。また、アベル・メホラの出のシャファテの子エリシャに油をそそいで、あなたに代わる預言者とせよ。(1列王19:15-16)

 

主がエリヤに告げられた通り、第二列王記8章ではハザエルがアラムの王となりました。そして、この9章ではエフーが登場します。彼は将軍でしたが、イゼベルとその息子ヨラム王に対抗して宗教改革を起こそうとします。

 

エフーによって、イゼベルは預言されていた通り*1の惨めな死を迎えます。

 

エフーはさらにアハブ家の生き残りとバアルの預言者を根絶やにしました。バアルの宮を徹底的に破壊し、公衆便所にしたとも記されています*2。ところが、その後、列王記の記者は残念ことを記録しています。

 

このようにして、エフーはバアルをイスラエルから根絶やしにした。ただし、エフーは、イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアムの罪、すなわち、ベテルとダンにあった金の子牛に仕えることをやめようとはしなかった。主はエフーに仰せられた。「あなたはわたしの見る目にかなったことをよくやり遂げ、アハブの家に対して、わたしが心に定めたことをことごとく行なったので、あなたの子孫は四代目まで、イスラエルの王座に着こう。」しかし、エフーは、心を尽くしてイスラエルの神、主の律法に歩もうと心がけず、イスラエルに罪を犯させたヤロブアムの罪から離れなかった。(10:28-31)

 

偶像を破壊しておきながら、自分自身は偶像礼拝を続けたのです。主は、エフーのやり遂げたことを良しとしてくださっていますが、彼の犯した罪についても見過ごしてはおられません。思わず「惜しい!」と叫びたくなります。ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

 

自戒を込めて言いますが、私たちは人目につくところでは熱心に奉仕をしても、個人的な祈りの生活が貧しい状態になることがあります。また、人前で格好の良いことを語っても、独りでいる時に考えていることはその言葉と一致しなかったりすることがあるのです。しかし、「お父さん(お母さん)、教会での顔と家での顔が全然違うよ!」と言われる信仰者で良いのでしょうか。「日曜日の自分」と「月曜から土曜までの自分」とがあまりにもかけ離れていて良いのでしょうか。

 

真の信仰には一貫性があるはずです。私たちはそれを目指し、罪を認めて悔い改め、変られ続けることを求めて祈りたいと思います。と同時に、憐れみ深い主は、完全でない者をも用いて御業を成されます。このことによって、その人物の偉大さではなく、神の偉大さが現されるのです。

 

 


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*1:「今、わたしはあなたにわざわいをもたらす。わたしはあなたの子孫を除き去り、アハブに属する小わっぱも奴隷も、自由の者も、イスラエルで断ち滅ぼし、あなたの家をネバテの子ヤロブアムの家のようにし、アヒヤの子バシャの家のようにする。それは、あなたがわたしの怒りを引き起こしたその怒りのため、イスラエルに罪を犯させたためだ。また、イゼベルについても主はこう仰せられる。『犬がイズレエルの領地でイゼベルを食らう。』アハブに属する者で、町で死ぬ者は犬どもがこれを食らい、野で死ぬ者は空の鳥がこれを食らう。」(第一列王21:21-24)

*2:このような行為は、現代の中東で活動しているテロリストの行動と(表面的には)重なって見える。そして、ある人々は「一神教はみんな同じ。一神教は怖い。」という。しかし、それは誤った論理である。まず、歴史的な紛れもない事実として無神論者や多神教者も残酷な大量虐殺を行っている。「日本人(の宗教観)こそ寛容」などと言う人々がいるが、たとえば「キリシタン弾圧」についてはどう考えるのだろうか。新井白石『西洋紀聞』の「二十〜三十万人」はあまりに多過ぎる数字にしても、数万人が虐殺されたことは間違いないだろう。その方法も、耳を削ぎ、時には何百キロも歩かせた末に十字架にかけるなど残虐そのものである。もちろん、「キリスト教」の名の下に罪深いが行為が数多くなされた事実も認めなければならないだろう。だからこそ、私は、人が人を殺すのは「すべての人は、罪を犯した…」(ローマ3:23)からであるということを主張したい。「義人はいない。ひとりもいない。」(ローマ3:10)のである。

 

さて、聖書を字義的に解釈することを重んじるクリスチャンは、旧約時代の出来事から霊的な教訓を学ぶが、しかし、「イスラエルの民」に命じられたことを“そのまま”現代の自分自身に適用しない。それは、聖書の教えが古くなったから現代に通用しないといった考えとは違う。

 

聖書時代の特定の人々に命じられていることと、現代の私たちに命じられていることとを、聖書の文脈と文字通りの解釈によって注意深く選り分けるということである。例えば、この列王記の箇所でエフーに命じられていることは、他でもないエフーその人に命じられていていることであり、今日の私に命じられていることではない。

 

では、教会が誕生して以降のクリスチャンである私たちに命じられていることは何だろうか。真理を曲げる偽りの教えに対しては、毅然とした態度をとることが命じられている。しかし、異教徒を殺せだとか、罪を犯したクリスチャンを石打ちにせよなどの教えはない。「私たちは、『復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする』、また、『主がその民をさばかれる』と言われる方を知っています。」(ヘブル10:30)