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道奥 MICHINOKU せみなりお

聖書を学び、聖書で考え、聖書に生きる

第二列王記16-17章

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ユダの王アハズについての記録です。彼はまだ未熟な二十歳で王となりました。北イスラエルやアラムなどの敵対勢力を退けながら、国を治めるという重責を果たすことに困難を覚えたことでしょう。

 

そのような中で、彼は主ご自身ではなく、別なものに助けを求めました。それは、オカルトと呼んでもよい異教的な儀式とアッシリヤ王の軍事力でした。

 

…主がイスラエル人の前から追い払われた異邦の民の、忌みきらうべきならわしをまねて、自分の子どもに火の中をくぐらせることまでした。(16:3)

 

アハズは使者たちをアッシリヤの王ティグラテ・ピレセルに遣わして言った。「私はあなたのしもべであり、あなたの子です。どうか上って来て、私を攻めているアラムの王とイスラエルの王の手から私を救ってください。」(16:7)

 

アハズはアッシリヤ王に、主の宮(神殿)にある金銀を贈り物として送りました。それだけではなく、アッシリヤ王に謁見するために訪れたダマスコ(現・シリヤのダマスカス)で見た偶像の祭壇を模倣し、それを作って自ら偶像礼拝をします。

 

偶像礼拝とは、私たちが主ご自身以上に“他の誰か・何か”を頼みとする心の態度です。たとえば、日本のクリスチャンにとっては焼香や墓参りなどの宗教的習慣とどう関わるかは悩みの種になります。もちろんその行為自体も問題なのですが、それ以上に考えなければならない問題は、人にどう思われるかを過剰に重んじ、主ご自身以上に「人」「人間関係の和」に頼ろうとする心の状態です。そこに偶像礼拝の根があるのです。

 

さて、17章では、アッシリヤが北イスラエルに侵攻し、サマリヤを陥落させたことが記録されています。アッシリヤは、北イスラエルの民を捕囚にしたり、様々な民族を移住させて雑婚を生じさせ、神の民のアイデンティティを混乱させようとします。これが、主イエスの時代に存在した「サマリヤ人」の起源です。彼らは主を知っており、主を礼拝することもするのですが、他の神をも平気で拝む人々でした。

 

主はすべての預言者とすべての先見者を通して、イスラエルとユダとに次のように警告して仰せられた。「あなたがたは悪の道から立ち返れ。わたしがあなたがたの先祖たちに命じ、また、わたしのしもべである預言者たちを通して、あなたがたに伝えた律法全体に従って、わたしの命令とおきてとを守れ。」しかし、彼らはこれを聞き入れず、彼らの神、主を信じなかった彼らの先祖たちよりも、うなじのこわい者となった。彼らは主のおきてと、彼らの先祖たちと結ばれた主の契約と、彼らに与えられた主の警告とをさげすみ、むなしいものに従って歩んだので、自分たちもむなしいものとなり、主が、ならってはならないと命じられた周囲の異邦人にならって歩んだ。(17:13-15)

 

現代においても、クリスチャンがキリストにあるアイデンティティを見失ってしまう危険性があります。聖書を学ぶことを怠っているゆえにクリスチャンとしてのアインデンティティを見失い、クリスチャンとしての実質を持たずに歩んでしまっている人々が少なからずいるのです。

 

彼らは聖書の真理ではなく、この世の声にならって歩んでいます。残念なことですが、そのような人々が「私もキリスト教徒です」と周りに言うことによって、神の御名が汚されているのです。

 

聖書に基づく、真のクリスチャンのアイデンティティとはどのようなものでしょうか。別に何の欠けのない完全な人である必要はありません。聖書によると、私たちは自分で自分を救えない絶望的な罪人であり、しかし、神の一方的恵みによって揺るがない救いをいただいた存在です。十字架にかかって復活された主イエスとひとつにされ、罪赦され、義とされ、永遠の命を授かり、神の子とされている存在です。

 

このような“キリストにあるアイデンティティ”をはっきりと心に刻むとき、私たちはキリストの素晴らしさを現し、このキリストだけを礼拝して歩むことができるのです。