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道奥 MICHINOKU せみなりお

聖書を学び、聖書で考え、聖書に生きる

第二列王記18-19章

北イスラエルはアッシリヤによって滅ぼされました。さらにこのアッシリヤの脅威は南ユダにまで及び、エルサレムの都も彼らに包囲されるのです。

 

 この当時の王はヒゼキヤです。彼は「主の目にかなうことを行った」(18:3)王でした。長いあいだ取り除かれることがなかった「高き所」も撤廃し、偶像を排除します。彼はそれらの改革を主への「信頼」に基づいて行いました。

 

彼はイスラエルの神、主に信頼していた。彼のあとにも彼の先にも、ユダの王たちの中で、彼ほどの者はだれもいなかった。彼は主に堅くすがって離れることなく、主がモーセに命じられた命令を守った。主は彼とともにおられた。彼はどこへ出陣しても勝利を収めた。彼はアッシリヤの王に反逆し、彼に仕えなかった。(18:5-7)

 

彼の改革を霊的にサポートしたのは、あの預言者イザヤです。ヒゼキヤの父であったアハズは、イザヤの霊的アドバイスに聞き従いませんでした。しかし、ヒゼキヤは柔和な心で指導を受け入れたのです。

 

ヒゼキヤ治世の14年目に、アッシリヤ王セナケリブが攻め込んできます。ヒゼキヤはアッシリヤ王に使いを送り、「何でもしますから、勘弁してください」と懇願します。これは弱腰とも取れますが、なんとしてもエルサレムの都を守ろうとしてことでしょう。

 

アッシリヤから派遣されたラブ・シャケ(←変な名前ですね、笑。)将軍は、国際語であるアラム語ではなく、わざわざユダのことば(ヘブル語)で話しました。そして、ユダの民衆とヒゼキヤ王との信頼関係に亀裂を生じさせようとしました。

 

こうして、ラブ・シャケはつっ立って、ユダのことばで大声に呼ばわって、語って言った。「大王、アッシリヤの王のことばを聞け。王はこう言われる。ヒゼキヤにごまかされるな。あれはおまえたちを私の手から救い出すことはできない。(18:28-29)

 

サタンも同じように教会に対して働きかけることがあります。教会が輝きを失う最大の要因は、外からの迫害ではなく内部分裂です。新約聖書には、このように記されています。

 

平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。(エペソ4:2)

 

一致は「人間業」ではなく、聖霊による「神業」です。聖霊の助けを「熱心」に求め、一致のための努力をする必要があります。

 

あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい。この人々は神に弁明する者であって、あなたがたのたましいのために見張りをしているのです。ですから、この人たちが喜んでそのことをし、嘆いてすることにならないようにしなさい。そうでないと、あなたがたの益にならないからです。(ヘブル13:17)

 

指導者たちへの「服従」とはすべての意見に盲目的に従うということではなく、「信頼してついていこうとする」という姿勢です。このような姿勢をもつことは、指導者たちが助かるという以上にその人々の「益」になると教えられています。

 

さて、絶体絶命のピンチの中、ヒゼキヤはどうしたでしょうか。

 

ヒゼキヤは主の前で祈って言った。「ケルビムの上に座しておられるイスラエルの神、主よ。ただ、あなただけが、地のすべての王国の神です。あなたが天と地を造られました。主よ。御耳を傾けて聞いてください。主よ。御目を開いてご覧ください。生ける神をそしるために言ってよこしたセナケリブのことばを聞いてください。…私たちの神、主よ。どうか今、私たちを彼の手から救ってください。そうすれば、地のすべての王国は、主よ、あなただけが神であることを知りましょう。」(19:16,19)

 

彼は主の前に進み出て祈りました。主をたたえ、主の御性質を告白しました。そして、現状を訴え、切に救いを求めました。主はなんとも想像を超えた方法でこの祈りに答えてくださいました。

 

その夜、主の使いが出て行って、アッシリヤの陣営で、十八万五千人を打ち殺した。人々が翌朝早く起きて見ると、なんと、彼らはみな、死体となっていた。(19:35)

 

旧約聖書において「主の使い」(the angel of the lord)は、肉体をとって地上にこられる前の御子キリストを指し示しているように見受けられます。私たちの祈りに応え、御子が勝利してくださるとはなんと心強いことでしょうか。

 

主は私たちの祈りを必ず聞いてくださいます。その祈りに対する答えは、必ずしも願い通りの形やタイミングではないかもしれません。しかし、主は私たちのために、いや、それ以上にご自身の御名のために戦ってくださり、必ず勝利し、最善を与えてくださるのです。