道奥 MICHINOKU せみなりお

聖書を学び、聖書で考え、聖書に生きる

使徒の働き2章

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五旬節(ペンテコステ)というユダヤ人の祭りの最中、主イエスの弟子たちに聖霊が臨み、いよいよ「教会」が誕生します。

 

彼らは、聖霊に満たされて他国のことばで話し出しました。それは、世界各国から祭りのために集まっていた在外ユダヤ人たちが普段話している国語であり、内容は神の偉大な働きについてでした。このような明らかな神の働きを見ても、「コイツらは昼間から酒を飲んで酔っ払ってるだけだ」とバカにする人々もいました。そこであのペテロが立ち上がります。

 

そこで、ペテロは十一人とともに立って、声を張り上げ、人々にはっきりとこう言った。「ユダヤの人々、ならびにエルサレムに住むすべての人々。あなたがたに知っていただきたいことがあります。どうか、私のことばに耳を貸してください。今は朝の九時ですから、あなたがたの思っているようにこの人たちは酔っているのではありません。(2:14-15)

 

ペテロはこの出来事のたった7週間前に、主イエスを「知らない」と三度も否んだ人物です。しかし、ここでの彼はひと味もふた味も違います。彼は復活の主イエスに出会い、聖霊を注がれ、力を受けてメッセージを語ります。そのメッセージの内容は、預言者ヨエルの書を引用し、新しい時代が到来したことを告げるものでした*1

 

そしてペテロは、ユダヤ人たちが十字架にかけて殺したナザレのイエスこそが、彼らが待ち望んでいたメシヤご自身であられたことをはっきりと宣言し、聞いている人々に悔い改めを迫りました。これと同じように私たちも、復活信仰と聖霊の働きによって、神からの使命を果たすために必要な勇気を得ます

 

そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。(2:41)

 

初代教会は、開始初日から三千人もの収穫を経験しました。ある人々はこの箇所をもとに、できるだけ早くバプテスマを授けるべきだと主張します。しかし、ここでバプテスマを受けたのは「ことばを受け入れた者」たちでした。彼らは元々旧約聖書の知識を持っており、ペテロが引用したヨエル書の意味も理解した上で、自分たちユダヤ人がメシヤを殺してしまったと心刺され、悔い改めた人々です。十字架刑から数週間しか経っていないエルサレムの街において、イエスの弟子となるということは大きな覚悟を伴うものでした。

 

日本の教会が弱い理由の大きな一つに「バプテスマが早すぎる」ということがあると、ブログ筆者は考えています。バプテスマ志願者がそもそも少ないため、そのような人が現れると喜び、急いで受けさせようとするのです。「気が変わらないうちに授けたほうが良い」という声も聞いたことがあります。しかし、それは大きな誤りです。場合によっては、真の信者でない人を教会員にしてしまうという、本人にとっても教会にとっても不幸な結果を招いてしまいます。

 

まだ主イエスを知らない人々に対して教会が丁寧にみことばを教えるとき、聖霊がその人に働いて罪を認めて悔い改めるよう導きます。そして、福音を自分のこととして受け入れられるように助けてくださいます。バプテスマは、その人に信仰が与えられていることがしっかりと確認されてから施されるべきです*2そのようにしてバプテスマを受け、教会に加えられたクリスチャンは信仰の成長を経験し、他の人々にも良い影響を与えます。

 

さて、初代の教会はどんな働きをしていたでしょうか。

 

そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。(2:42)

 

なんといっても、使徒たちの教え(聖書の教え)をしっかりと学び、心に根付かせることに取り組んでいました。聖書の教えのないところに教会無しです。どんなに建物が立派でも荘厳な音楽や儀式があっても、聖書が正しく解かれず、それに基づいて考え生きることが勧められないならば、そこに真の教会は生まれません。逆に、建物が十分でなくても音楽がなくても、御言葉がまっすぐに解き明かされ、受け取られていくなら、そこには真の教会が建て上げられていきます

 

真の教会は、交わりを重んじます。教会の交わりは、一般的な交友関係と異なります。その中心にあるものは、パン裂き(食事と聖餐式)であり、祈りです。人間関係の真ん中にいつも「十字架の福音」を置きます。クリスチャンは「私も赦されている罪人、あなたもそうだ」という人間観をもって交わりを築くのです。そして、互いのためにとりなし、祈り、人間関係が超自然的な神の導きと助けによって支えられるよう求めます。クリスチャンは独りきりでは歩めないし、そう歩むべきでないのです。

 

そして、一同の心に恐れが生じ、使徒たちによって多くの不思議としるしが行なわれた(2:43)

 

健全なクリスチャン生活には神への「恐れ(畏れ)」があります。主なる神は、私たちに親しく臨んでくださる父であられることも事実ですが、このお方をあまりにも軽々しくとらえ、まるで人間のトモダチであるかのように見ることは慎むべきです。

 

初代教会の時代、使徒たちが多くの奇跡を行いました。これらの奇跡は、使徒たちのことばが神からのものであることを裏付ける働きをしました。聖書が完成してからはこのような奇跡が止みます。現代を生きる私たちは、使徒たちと同じような類の奇跡を起こすことはないでしょう。しかし、聖書に従う生き方を通して聖書のことばの真実性を証明していくことにチャレンジしていきたいと思います。

 

信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた。そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。(2:44-47)

 

使徒たちが初代教会において実践したことは、私たちに一つの重要なモデルを示してくれますし、大いに参考になりますが、必ずしもその通りに真似しなければならないものではありません。聖書が私たち対してはっきりと“命令”していることと、イスラエルや初代教会の“歴史として記録”していることとは同列ではありません。

 

「命令」には従うべきですが、「歴史」からは教訓を学ぶべきです。この箇所を持ち出して「全財産を売り払え」「私有財産を放棄して共同生活をすべきだ」などとクリスチャンに命じるのは誤った聖書解釈によるものです。残念ながら、そのような教えをするカルト団体も存在します。聖書がはっきりとクリスチャンたちに命じていることは、互いに助け合い、愛し合うことですが、その方法は一つに限定されていません。

 

心を一つにして宮に集まることは、共同体としての公の礼拝を指しています。彼らはそのような公の礼拝を大切にしつつ、家族単位、小グループ単位での交わりや礼拝をも大切にしていました。そして、そのような礼拝中心のライフスタイルを通して、クリスチャンは、まだ主イエスを信じていない人々にも好意を持たれました。主はそのような教会に救われる人々を加え続けられました

 

このような初代教会の姿から、私たちは大いに刺激を受けます。日本ではキリスト教の停滞が叫ばれていますが、教会が本来の命に満ち溢れ、健康に機能するならば、驚くほど大きな神の働きが現れるのです!

 

 

*1:ヨエル書の預言は、このペンテコステの日において成就するものではなく、再臨を経て千年王国が到来する際に成就するものである。信頼できる多くの注解者たちが、この場面でペテロがヨエル書を引用した理由を「教会が誕生した際にも、千年王国到来の際と同じように聖霊が注がれている」ことを教え示すためであったと考えている。

*2:生まれたての赤ちゃんは大人とは違うので、十分成熟はしていない。しかし、生まれた赤ちゃんは胎児とも決定的に違うのである。新生したクリスチャンは、成熟した大人のクリスチャンとは違い、様々な面で未熟である。しかし、新生していない「生まれながらの人」とは異なり、その人は確かに罪を認め、イエスだけが唯一の救い主であり、主なる神であるとの信仰を抱いているのである。