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道奥 MICHINOKU せみなりお

聖書を学び、聖書で考え、聖書に生きる

使徒の働き3章

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ペテロとヨハネの二人が、神殿に祈りを捧げに行きます。主イエスの弟子たちに対する警戒や反感が根強いエルサレムですから、未だ身を隠していてもおかしくありません。それでも彼らは、ユダヤ人としての伝統を大切にしていたようです。それ以上に、彼らが信仰によって堂々としている様子が伝わってきます。

 

そこに生まれつき足のなえた人がおそらく家族によって運ばれて来て、物乞いをするため道端に置かれました。その絶妙なタイミングでこの二人が通りがかりました。このような「偶然」と思える出会い、タイミングも神様のご支配の中にあります。この足の不自由な男は、施しをもらえるかと期待しましたが、しかし、神様が用意しておられたのはそれ以上の恵みでした。

 

ペテロは、ヨハネとともに、その男を見つめて、「私たちを見なさい」と言った。男は何かもらえると思って、ふたりに目を注いだ。すると、ペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」と言って、彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮に入って行った。(3:4-8)

 

この出来事によって騒ぎが起こり、人々が集まってきます。

 

ペテロはこれを見て、人々に向かってこう言った。「イスラエル人たち。なぜこのことに驚いているのですか。なぜ、私たちが自分の力とか信仰深さとかによって彼を歩かせたかのように、私たちを見つめるのですか。」(3:12)

 

大いなる神の業は、人間の力や信仰の深さによってではなく、主イエスの御名の力によってなされました。そして、ペテロは群衆に向かって説教を始めます。この説教のテーマは「イエスについての考えを変えよ!」です。

 

この説教の中でペテロは、主イエスがどんな方であるかを様々な表現をもって教えます。人々は未だ「ナザレのイエスは、反乱に失敗した自称メシヤ」「単なる田舎の大工の息子」などと見ていたかもしれません。しかし、ペテロは主イエスが「アブラハム、イサク、ヤコブの神のしもべ」「きよい方」「正しい方」「いのちの君(きみ)」「死者の中からよみがえった方」「メシヤと定められた方」「私(モーセ)のようなひとりの預言者」であると語ります。これらの表現ひとつひとつが深く、大きな意味を持っています。ぜひ、これらを味わい、考えを変えていく歩みをしたいと思います。

 

たとえば、「アブラハム、イサク…の神」というのは、神様が「契約の神」であられることを示しす表現です。イスラエルの民がどんなに罪を繰り返していても、神ご自身はご自身の結ばれた契約に忠実であられ、その契約の成就として主イエスを遣わしてくださったことがここで言われています。

 

普通、私たちは誰かと契約(約束)を結んでいても、相手があまりにも不忠実であるなら腹を立て、その契約を破棄したくなるものです。結婚式において「健やかなる時も、病める時も…」と約束したにも関わらず、相手が自分の思い通りにならないと不満を抱いたり、怒ったり、辛く当たったりしてしまいます。それなのに、神ご自身は決して契約を軽んじることのないお方です。神様が主イエスをお遣わしになったことは、契約に対する神の驚くべき誠実さの現れなのです。

 

このように、イエス様理解に関するひとつひとつの表現の意味を見つめていくとき、私たちクリスチャンも相当に考えを改める必要があると気付かされます。ペテロは、説教を聞いているユダヤ人たちに悔い改めを迫りましたが、「悔い改め」とは「考えを変えること」です

 

私たちが主イエスを正しく、深く、豊かに知り、私たちの考えが変えられていくとき、私たちは主イエスの御名の力を体験していきます。御名は「人格そのもの」を意味することばでもありますが、私たちの人格は主イエスの人格の影響を受けて変えられます。また、御名による祈りが聞かれるのを実際に見ていくことができます。

 

そして、このイエスの御名が、その御名を信じる信仰のゆえに、あなたがたがいま見ており知っているこの人を強くしたのです。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの目の前で完全なからだにしたのです。…そういうわけですから、あなたがたの罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて、神に立ち返りなさい。(3:16,19)