道奥 MICHINOKU せみなりお

聖書を学び、聖書で考え、聖書に生きる

同性愛、同性婚の問題について

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もの凄い勢いで容認に進んでいますね。 世の中にはこのような動きを好ましいこととする人々、それを好ましくないと考える人々がいます。いわゆる「キリスト教界」の中でも意見が分かれるのでしょう…。単純に二つに分かれるということでもない状況です。そういう中で私たちは何を信じ、どのように生きるべきか…。とても語り尽くせないのですが、大切なことなので少し述べたいと思います。

 

www.huffingtonpost.jp

 

あなたは、道徳的な境界線を何を基準にして引きますか。あなたの周りの方々はどのようにしているでしょうか。この社会はどうでしょうか。


近年、大きくその境界線の引き方が変化しているのは、この「性」の問題に関してです。私は聖書の教えにもとづいて、「性」というものが神のご計画の中で麗しい位置づけを持っている、素晴らしい創造物であると信じます。私は聖書の教えに基づいて「同性愛」が明確に罪であることを信じています。それは、実際の行為においてであれ、心の内の思いにおいてであれ、やはり神の前では罪です。

 

もちろん、異性愛だからといって無条件に肯定される訳ではありません。私は、男女一対一の結婚における愛に基づく性行為“以外”のあらゆる性的な営みと思いは罪であると、聖書に基づいて信じています。 それは、結婚前の性交渉、いわゆる不倫(本来、姦淫と呼ぶべきです)、いわゆる風俗、ポルノなどなどを意味します。さらに、主イエスご自身が指摘しておられるように、心の中の思いにおいても人は性的な罪を犯します。

 

私自身も含めて、おそらくほぼ全ての人間がこのような性的罪と無縁とは言えないでしょう。全ての罪人が悔い改めの必要を有していますし、主は悔い改める者に対して憐れみ深くあられます。主イエスの十字架は私たちの罪を赦すためのものであり、それと同時に、私たちを罪深い生き方から離れさせる力をも持っています。

 

キリスト教界においても、聖書の権威が徐々に軽く見られるようになり、これらの問題について「自由な(?)」「開かれた(?)」見方をする人々が増えているのが現実です。日本においても、いくつかの教団では「同性愛者」を公言している“牧師”、しかも、それが罪ではなく個性であると主張している“牧師”たちがいます。

 

「同性であっても真実に愛しているのだ」と言われるのですが、では、他人の夫や妻を愛することはどうでしょうか。複数の人々、たとえば何十人をも同時に愛することも良いでしょうか。そもそも「愛」をどのように定義するのでしょうか。

 

聖書に基づいて考えるなら、「愛」とは、愛なる神ご自身の本性に由来するものであり、人間が感情や状況によって勝手に定義すべきものではありません。私たちは、神のことばである聖書が「愛」だとするものを愛と呼ぶべきです。

 

私は、聖書に沿って自らの価値観に線引をすることに努めます。自分自身が様々な聖書的境界線をしばしば踏み越えてしまう愚かさ持っていることを認め、主の赦しと助けと守りとを求めて歩みたいと思っています。

 

また、罪は罪としつつも、罪に陥っている人々を冷たく断罪するのではなく彼らのために執り成して祈りたいと思います。悔い改めと救い、罪深い生き方からの解放を願いつつ、できる助けをしたいと考えます。

 

そして、何よりも、聖書に基づく結婚関係において、神の恵みを味わい、神の麗しさを表す歩みをしたいと切に願います。私は、教会に連なる愛する皆さんとそのような歩みを(それは険しい道かもしれませんが)共にしたいと心から願っています。

 

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