道奥 MICHINOKU せみなりお

聖書を学び、聖書で考え、聖書に生きる

第一歴代誌10章

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イスラエルの民は本来、神ご自身を王としていました。しかし、彼らは周辺諸国と同様に目に見える人間の王を持ちたいと考えました。そこで初代王になったのがサウルでした。このサウルという名前は「尋ね求める」という動詞から派生した言葉ですが、彼は一体に何を尋ね求めたでしょうか。

 

 

部下のダビデを恐れ、その命を奪おうとしてまで権力の座を常に求めたサウルの生涯の終わりが記されています。

 

このように、サウルは主に逆らったみずからの不信の罪のために死んだ。主のことばを守らず、そのうえ、霊媒によって伺いを立て、主に尋ねなかった。それで、主は彼を殺し、王位をエッサイの子ダビデに回された。(10:13-14)

 

彼は主ご自身とその御心を尋ね求めませんでした。それが決定的な分かれ目となり、彼は惨めな最後を迎えることになってしまいました。

 

権力、人からの評価、物質的な繁栄、安定、快楽など、人は様々なものを尋ね求めます。それら一つ一つは必ずしも悪いものではないでしょう。しかし、人間は本来、神のために、神の方に向けて創造されました。何よりもこの神ご自身とその御心を尋ね求めるとき、人は本来の自分自身の生きる道を見出すのです。


サウルと同じ名前の人物が新約聖書に登場します。それは、あのパウロです。彼のヘブル語名「サウロ」は、旧約のサウルと同じなのです。彼がどのように生きたかを思い出してください。彼は主を慕い求め、主の御心を尋ね求め、その御心を実現するために走り続けました。

 

…私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。…私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。(ピリピ3:8,12)