神の臨在を求める決断
神の箱は、地上において神の臨在を象徴するものでしたが、サウル王の時代には全く顧みられることがなくなっていました。ダビデは民と共に神の箱の奪還を決意します。それは、他でもない神の臨在そのものを慕い求める決断でした。
私たちの生活の中でも「神様の臨在の中を歩もう」「主と共に歩む生活に戻ろう」という決断が求められる場面があります。あなた自身が今、そのようなところに立たされているかもしれません。また、あなたの周りにいる友がそうかも知れません。主が私たちに善い志を与え、それを実現へと導いてくださいますように。
不敬事件
さて、イスラエルは神の箱を取り戻し、歓喜して踊りながら礼拝を捧げますが、ここで有名な「ウザによる不敬事件」が起こります。これについては、平行記事の解説(第二サムエル記6章)を参照してください。
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王権確立の鍵
さて、14章においてもダビデの王権が力強く確立されていく様子が見受けられます。その鍵となったいくつかのことに目を留めておきましょう。
ダビデは、主が彼をイスラエルの王として堅く立て、主の民イスラエルのために、彼の王権がいよいよ盛んにされているのを知った。(14:2)
ダビデは他でもない主ご自身が彼を王として立ててくださっていることを知っていました。彼は自己の力によって王権を確立しているとは考えていなかったのです。そして、彼はこの王権が主の民のためであることをも知っていました。
私たちに力を与え、権威を委ねるのは、神ご自身です。その力は、神ご自身の喜ばれる目的のために用いられるべきです。
当時のダビデは、常に主に伺いを立てます。「伺う」と訳されている言葉は、サウル王の名前の元となっている「シャーアル」という動詞です。ダビデとは違って、サウルはその名の通りに生きることができませんでした。私たちクリスチャンは、その名の通り、キリストを慕い求め、キリストに伺い、キリストに従う者となっていきたいものです。主が私たちをそのように導いてくださいますように。
こうして、ダビデの名声はあまねく全地に及んだ。主はすべての国々に、彼に対する恐怖を起こされた。(14:17)
新しい礼拝の時代
15章では、いよいよ神の箱がエルサレムへと運ばれ、天幕に安置されようとしています。これは「ダビデの幕屋」と呼ばれ、モーセ以来の「会見の幕屋」とは異なります。イスラエルはここで新しい礼拝の時代を迎えようとしているのです。
そのとき、ダビデは言った。「レビ人でなければ、神の箱をかついではならない。主は、主の箱をかつがせ、とこしえまでも、ご自身に仕えさせるために、彼らを選ばれたからである。」(15:2)
この時のダビデは、以前とは異なり、律法に基づいて指示を出します。
…レビ族は、モーセが主のことばに従って命じたとおり、神の箱をにない棒で肩にかついだ。(15:15)
同じ轍を踏まないように細心の注意が払われています。礼拝を捧げる上で何よりも重要なのは、それが御言葉に沿った礼拝であるかどうかです。どんなに荘厳な雰囲気があったとしても、感情的に高揚する集会だったとしても、説教者が雄弁であっても、御言葉が蔑ろにされているなら、主は喜ばれません。
ルールに則って神を“求める”ことは律法主義ではありません。これは、主の御言葉への大いなる敬意を示すものであり、ペレツ・ウザで起こったような惨劇からの護りを与えてくれるものでもあるのです。(Global Study Bibleの解説より翻訳)
この後、礼拝の奉仕のために秩序正しく組織が築き上げられていきます。この時代から、礼拝において音楽が重要な位置を占めるようになります。この賛美パレードの様子を実際に目撃してみたかった…と私は思います。詩篇の描写を見てみましょう。
私の王である神様の行列は、聖所に向かっています。 先頭を行くのは歌い手たちで、楽器をかなでる人々がしんがりを務め、真ん中をタンバリンを打ち鳴らすおとめらが進みます。 さあ、イスラエル国民よ、私たちの泉そのものである神様をほめたたえなさい。 (詩篇 68:24-26 JLB)
素晴らしい礼拝が歓喜の中で行われていますが、それを蔑むミカルのような人もいます(29節)。私たちは、礼拝者たちを冷ややかに批評するミカルの道を選ぶでしょうか、ただ一心に主を慕って礼拝を捧げるダビデの道を選ぶでしょうか…。「もちろん、ダビデの道を!」と答えたいと思います。
動画:イスラエル人のワーシップリーダー、ジョシュア・アーロンの「David Danced(ダビデは踊った)」
David Danced (Let The Heavens Be Glad) Joshua ...