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道奥 MICHINOKU せみなりお

聖書を学び、聖書で考え、聖書に生きる

使徒の働き13章

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世界宣教の出発点となったアンテオケ教会ですが、そこにはバラエティ豊かな顔ぶれがそろっていました。

 

 さて、アンテオケには、そこにある教会に、バルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、クレネ人ルキオ、国主ヘロデの乳兄弟マナエン、サウロなどという預言者や教師がいた。(13:1)

 

出身や国籍、社会的背景や教養、人脈などなど、それぞれが違ったものを持っていました。ある人は裕福、ある人はアフリカ出身、ある人は領主と共に育ったという経歴、ある人は元迫害者…。この教会においては、各々の個性や経歴が神様から託されたギフトとして豊かに用いられて教会を建て上げる力となっていました。

 

彼らが主を礼拝し、断食をしていると、聖霊が、「バルナバとサウロをわたしのために聖別して、わたしが召した任務につかせなさい」と言われた。そこで彼らは、断食と祈りをして、ふたりの上に手を置いてから、送り出した。ふたりは聖霊に遣わされて、セルキヤに下り、そこから船でキプロスに渡った。(13:2-4)

 

いよいよ、世界初の「宣教師派遣」です。この計画が聖霊によって示されたのは、アンテオケ教会が主を礼拝し、断食をして祈っている時でした。

 

神様の導きや促しをしっかりと受け取るために必要なのは、あれこれ考えたり長々と話し合ったりすること以上に(これらのこともある程度必要ですが)、主を見上げて礼拝を捧げ、真剣に祈ることなのです。

 

教会は、重要なリーダーであるバルナバとパウロを宣教師として派遣します。役に立たない人をお払い箱にしたのではなく、本来、なくてはならない存在であった人々を派遣したのです。それは重大な決断であり、教会にとって痛みの伴う決断でした。

 

だからこそ、教会は、その計画が聖霊に示された後も断食して祈ります。そして、按手して祈って送り出しました。「アンテオケ教会が送り出した」のですが、記者ルカはこれを「聖霊に遣わされて」と記しています。アンテオケ教会の自己犠牲的な決断が、聖霊のお示しになっている御心と一致している様子が見て取れます。

 

バルナバとパウロは、キプロス島にて宣教を行います。そこでは、魔術師の妨害もありましたが、サウロが権威をもって宣言をするとその魔術師はしばらくのあいだ盲目になりました。そのような奇跡を「賢明な人」と呼ばれていた地方総督セルギオ・パウロが目撃しました。

 

この出来事を見た総督は、主の教えに驚嘆して信仰に入った。(13:12)

 

総督は目の前で起きた超自然的な出来事を見て驚いたでしょう。しかし、それ以上に彼を驚嘆させたものは「主の教え」でした。

 

この後、バルナバとパウロに同行していたヨハネ・マルコが戦線離脱してエルサレムに帰ってしまいます。このことはやがて一つの事件を生むことになります。

 

さて一行は、ピシデヤのアンテオケに行きます。彼らの旅においては、行く先々でまず真っ先に「会堂(シナゴーグ)」における福音宣教が行われました。そこに集っていたユダヤ人やユダヤ教に改宗した異邦人たちは、まだイエスがメシヤであるという福音を知りませんでしたが、旧約聖書を知り、(十分に正しかったわけではありませんが)神を知っていました。

 

ユダヤ人共同体では、成人男子が10人いれば会堂を建てて礼拝をすることができました(この10人という人数を、ミニヨンと言います)。当時、ユダヤ人の会堂がローマ世界のあちこちに存在していたことは、神の摂理と言えるものです。バルナバとサウロは、それらの会堂を拠点として伝道を開始し、新しい地にあっても短時間のうちに大きな成果を上げることができました。(クレイ聖書解説コレクション「使徒の働き」中川健一著より引用)

 

パウロは会堂において、神に導かれたイスラエルの歴史を語り、ダビデの子孫として生まれる約束のメシヤがイエスであることを告げます。それは、あのバプテスマのヨハネも証言していたことでもありました。

 

兄弟の方々、アブラハムの子孫の方々、ならびに皆さんの中で神を恐れかしこむ方々。この救いのことばは、私たちに送られているのです。(13:26)

 

パウロは熱心に説教を続け、その内容はクライマックスに差し掛かります。ユダヤの宗教指導者がイエスを拒み、十字架へと引き渡したこと、そして、処刑されたイエスの体が墓に納められたこと、しかし、そのお方が神によって死者の中からよみがえられたことが語られました。

 

パウロは肉声で語る際にも、手紙を記す際にもこのことを伝えました。キリスト教のメッセージの中心は「隣人を愛しましょう」とか「立派な人になりましょう」ではありません。そのような教えは他の宗教や人生哲学にも見られるものです。最も大切なメッセージはイエス・キリストというお方そのものであり、その「死・葬り・復活」なのです・

 

私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと…」(1コリント15:3-4)

 

パウロはこの後、旧約聖書の預言も引用しながら、イエスがメシヤであることの確証を示し、人々に信仰のチャレンジを与えます。それは律法の世界から恵みの世界への招きでした。

 

ですから、兄弟たち。あなたがたに罪の赦しが宣べられているのはこの方によるということを、よく知っておいてください。モーセの律法によっては解放されることのできなかったすべての点について、信じる者はみな、この方によって、解放されるのです。(13:38-39)

 

メッセージの後、人々はどのような反応を示したでしょうか。

 

ふたりが会堂を出るとき、人々は、次の安息日にも同じことについて話してくれるように頼んだ。会堂の集会が終わってからも、多くのユダヤ人と神を敬う改宗者たちが、パウロとバルナバについて来たので、ふたりは彼らと話し合って、いつまでも神の恵みにとどまっているように勧めた。次の安息日には、ほとんど町中の人が、神のことばを聞きに集まって来た。(13:42-44)

 

説教者にとって最も喜ばしいことは、人々に御言葉そのものが届き、それが人々の内に残っていくことです。「お話が上手ですね」と言われても全く嬉しくありませんし、ネクタイが似合っていますねと言われても少ししか嬉しくありません(笑)。「聖書は素晴らしい。御言葉は素晴らしい。もっと聞きたい。もっと深く知りたい」という反応こそ、説教者にとって最高の喜びです。

 

パウロとバルナバは信仰をもった人々に対して、従来の「律法を守って神に認められる」という律法主義の信仰から、神の恵み、すなわちイエス・キリストによる罪の赦しと義を信じる信仰にとどまるように勧めました。

 

これはユダヤ教徒だけではなく、現代のクリスチャンも気をつける必要のあることです。ついつい私たちは、神様がすでになしてくださった(done)恵みのわざを忘れ、自分が何をしなければならないか(do, doing)に心を奪われるのです。そして、何かができたときには自分を誇り、できないときには自分を卑下します。

 

しかし、主イエスは十字架上で「完了した」と言われたのです。

 

私たちは「イエス様が私の救いのために必要なすべてのことを、私の代わりにすでに完了してくださった!それは私が何かをできたときも、できてないときも変わらない!」と信頼し、その恵みに対する理解を深め、喜びを深め、感謝を深めていけば良いのです。

 

反対や激しい迫害もありましたが、しかし、「主のみことばは、この地方全体に広まった」(49節)と記されています。教会の勢力が拡大したとか、使徒たちの名声がとどろいたとか、そういうこと以上に真理のみことば、恵みの福音のことばが浸透し、拡大したのです。その主のみことばゆえに「弟子たちは喜びと聖霊に満たされて」(52節)いました。

 

※ 私の手首、腕の痛みのためにお祈りくださって感謝します。いわゆる「マウス肘」などと呼ばれる、パソコン作業による腱鞘炎のようなものです。まだ症状はありますが、極力安静にしているので一時より良い状態です。ボチボチ更新しますので気長にお付き合いください。

 

パウロ

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