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道奥 MICHINOKU せみなりお

聖書を学び、聖書で考え、聖書に生きる

使徒の働き14章

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連れ立って

パウロとバルナバは、現在のトルコにあったイコニオムという町に入ります。二人は“連れ立って”ユダヤ人会堂に入り、福音を語りました。そこでも多くの人々が信仰に導かれました。

 

パウロの名前がクローズアップされていますが、しかし、彼が一人で働きを成し遂げることは不可能でした。よく、「◯◯先生の教会」といった言い方がなされます。確かに、目立つ働きをするリーダーがいたり、傑出した賜物を持つ人物が用いられることもあります。しかし、それらの人々も決して一人で働きをやり遂げることはできないのです。

 

ことばの証明

確かに多くの人々が信じましたが、信じようとしない人々もいました。彼らは自分が信じないだけではなく、他の人々(特に異邦人)をそそのかしてクリスチャンへの悪意を煽り、迫害を強めました。

 

それでも、ふたりは長らく滞在し、主によって大胆に語った。主は、彼らの手にしるしと不思議なわざを行なわせ、御恵みのことばの証明をされた。(14:3)

 

パウロとバルナバは、迫害のある中でもギリギリまでこの町にとどまりました。彼らは奇跡を行いましたが、それは、御言葉に取って代わるものではなく、あくまで御言葉を裏付けるためのものでした。私たちの行う様々な働きも恵みの御言葉にとって代わるものではなく、その証明のためになされるためのものであるべきです。

 

癒される信仰

パウロとバルナバはこの後、ルステラ、デルベなどで宣教を続けます。ルステラでは足の不自由な人に出会い、この人に「いやされる信仰がある」(9節)を見て、癒やしの奇跡を行いました。「癒される信仰」と聞くと、「自分は絶対に癒やされる」という信念のように思うかもしれません。

 

ここで言われているのはそのような“信念”ではありません。彼は「パウロの話すことに耳を傾けていた」のです。彼はそれを受け入れ、主イエスを救い主として信頼する信仰を抱くようになったのでしょう。

 

異教的背景を持つ人々へのメッセージ

この奇跡の後、町の人々はパウロとバルナバのことを「ヘルメスだ!ゼウスだ!」と祀り上げようとします。ヘルメスは雄弁の神、ゼウスはギリシヤの主神です。なんとゼウスの祭司は、二人に対していけにえを捧げようとしました。しかし、彼らはそれを厳しく諫めます。

 

これを聞いた使徒たち、バルナバとパウロは、衣を裂いて、群衆の中に駆け込み、叫びながら、言った。「皆さん。どうしてこんなことをするのですか。私たちも皆さんと同じ人間です。そして、あなたがたがこのようなむなしいことを捨てて、天と地と海とその中にあるすべてのものをお造りになった生ける神に立ち返るように、福音を宣べ伝えている者たちです。(14:14-15)

 

ここで語られたメッセージは、短いけれども非常に有益な内容です。特に、聖書的なバックグラウンドを持たない、あるいは一神教的宗教観を持たない人々に対するメッセージの「モデル」と言える内容です。

 

パウロは「人間は神ではないんだよ」「天地万物、すべての命を創った唯一神がいるよ」「その神は生きておられ、あなたがたが立ち返るのを願っておられるよ」ということを語っています。

 

さらに、16節以下では、その神が全歴史を導いて来られたこと、天からの雨、季節ごとの実り、様々な食物と喜びといった恵みで人々を満たしておられたことを語るのです。これはまさに日本人が聞くべきメッセージでもあります。日本人にいきなり、十字架の福音を語ってもピンと来ません。それは福音の内容につまずいているのではなく、言っている意味が通じていない状態です。まず先に、唯一の生きた創造主がおられることを知らなければ、罪も救いも分からないのです。

 

パウロの臨死体験!?

さて、せっかく福音を伝えているのに再び妨害が入ります。アンテオケ、イコニオムのユダヤ人迫害者たちが群衆を先導し、ついにはパウロを石打にします。人々はパウロが死んだと思って町の外に引きずり出しましたが、パウロは立ち上がって再び町に入っていきました。パウロはおそらく仮死状態になり、ひょっとすると2コリント12:2に書かれている体験をしたのかも知れません。

 

しかし、超自然的な癒やしを受けて、驚異的な回復を見せたのでしょう。彼は迫害の中でも、弟子たちの心を強め、この信仰にしっかりとどまるように勧め、「私たちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なければならない」と語りました(22節)。

 

長老“たち”

23節では、長老(今の牧師)の選出と任命について記されています。パウロはユダヤ人会堂で福音を語り、信じる者が起こされると彼らを訓練し、長老たちを立ててその群れを委ねるというパターンをどの町においても繰り返しています。

 

これは現代においてもモデルとなる働きでしょう。「長老たち」とあるように、牧会者が一人ではなく複数であることにも注目しましょう。このことにより、長老は互いに祈り合い、切磋琢磨し合い、支えあい、戒め合うことができます。牧会者にとっても、教会全体にとってもどれほど有益なことでしょうか。

 

ベースキャンプへの帰還

さて、パウロとバルナバは距離にして千キロ、おそらく約一年の宣教旅行を終え、出発点であるアンテオケに帰ります。そこで彼らは長い時間を仲間の弟子たちと過ごし、様々なことを報告しました。彼らの宣教の働きの背後には、このように安心して帰ることのできるベースキャンプがあったです。

 

 

※写真は、日本聖書協会1954年版、バイブルアトラスより