壮大な神殿建築プロジェクトの詳細が記録されています。
…三千バテであった。(4:5)
歴代誌と列王記の並行記事において、数字の相違がたびたび見られます。列王記には二千バテと書かれているのです。これらの箇所を非常に「問題視」する人々もいます。
これは「海」と呼ばれる鉢(水槽)の容量ですが、寸法から計算すると約二千四百バテという数字が出てきます。すなわち、二千も三千も「概数」であると考えられます。こういった問題についての有益な解説を、少し長いですが引用しておきましょう。
聖書に、9,746人の兵士による戦いが知るされていると仮定してみよう。そのその場合、なにをもって正しい(あるいは無謬=むびゅう)の報告とするだろうか。10,000という数は正確と言えるか。9,000、9,500、9,480、9,475はどうか。あるいは正しいと認められるのは9,476だけだろうか。それはどのような目的で記されたかによるというのが、その答えである。
もしその記録が、将校がその上司に提出する公式の文書であるとしたら、その数は正確でなければならない。それは脱走兵がいるかどうかを確かめる唯一の方法である。他方、戦いの規模について何らかのイメージを与えるだけでよいのなら、10,000という概数で十分であり、この場合に限って言えば正しいと認められる。
これは、歴代誌4:2に記された鋳物の海にもあてはめることができる。寸法を書き留める目的が、複製を正確に組み立てるための設計図を作成することであるしたら、直径10キュビトにするか、演習を30キュビトにするかということがわからなければならない。しかし、大きさのイメージを伝えるだけで目的が達せられるとしたら、歴代誌記者は概数を記せば良いのであって、その記述は完全に正しいと判断される。
(M. エリクソン『キリスト教神学・第1巻』第11章「神の言葉の信頼性:無誤性」より)
神殿奉献の際には以下のような光景が見られました。
ラッパを吹き鳴らす者、歌うたいたちが、まるでひとりででもあるかのように一致して歌声を響かせ、主を賛美し、ほめたたえた。そして、ラッパとシンバルとさまざまの楽器をかなでて声をあげ、「主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで」と主に向かって賛美した。そのとき、その宮、すなわち主の宮は雲で満ちた。祭司たちは、その雲にさえぎられ、そこに立って仕えることができなかった。主の栄光が神の宮に満ちたからである。(5:13-14)
ひとりであるかのような一致、楽器(表現)の多様性、主のご性質を宣言すること、焦点が人ではなく主ご自身に向かっていることなど、モデル的な礼拝が捧げられています。そこには主の臨在を表す「雲」が満ちあふれました。主はどこにでもおられる「遍在」のお方ですが、私たちが真にそのことを認め、味わうとき、私たちは平気で立ってはいられないほどに圧倒されます。
「イスラエルの神、主。天にも地にも、あなたのような神はほかにありません。あなたは、心を尽くして御前に歩むあなたのしもべたちに対し、契約と愛とを守られる方です。あなたは、約束されたことを、あなたのしもべ、私の父ダビデのために守られました。それゆえ、あなたは御口をもって語られました。また御手をもって、これを今日のように、成し遂げられました。」(6:14-15)
ソロモンが賛美と祈りを捧げます。それはやはり、神ご自身の御性質とみわざを告白するものでした。
私たちの祈りはどうでしょうか。確かに、私たちの願い求めるとことを大胆に主にお話しすることも大切なのですが、そればかりになってしまってはいないでしょうか。
主ご自身がどんな方であられ、どんなに素晴らしいことをしてくださったかを告白する祈りを捧げていきたいと思います。
この後、ソロモンの祈りは、民が罪を犯すことを前提に「赦し」を求める内容になっていきます。また、神殿を軸にして将来何が起こるかといった預言的な内容 ーたとえば捕囚の地から神殿に向かって祈るとか、異国の民たちが礼拝に訪れるようになるとかー が語られます。
そして、祈りはこのように結ばれます。
「今、私の神よ。お願いします。どうか、この所でささげる祈りに目を開き、耳を傾けてください。そこで今、神、主よ。あなたもあなたの御力の箱も立ち上がって、休み所にお入りください。神、主よ。あなたの祭司たちの身に救いをまとわせてください。あなたの聖徒たちにいつくしみを喜ばせてください。神、主よ。あなたに油そそがれた者たちの顔を退けないでください。あなたのしもべダビデの忠実なわざの数々を思い起こしてください。」(6:40-42)
神様を物理的に神殿に収めること本来はできません。しかし、神ご自身は、神殿を特別に住まいとし、そこに臨在を表してくださいました。このソロモンの祈りは、聖霊の内住をいただいた私たちキリスト者にも重ね合わせることができる内容です。
私たちは本来、神様に住んでいただくにはふさわしくない器ですが、神である聖霊は私たちの内にお入りくださっています。
そして、私たちに救いをまとわせて祭司とし、いつくしみを喜ばせてくださっています。
私たちの顔を決して退けることをなさいません。
なぜ、そんなことが可能かというならば、ダビデの子としてお生まれになったメシヤ、イエス様の忠実さによって私たちの罪が贖われ、私たちは義とされているからです。
この後、ある夜、奉献を祝ったソロモンに主が現れて語りかけられます。
それは、「もし罪を犯したなら、このように悔い改めなさい」という処方箋(13-15)と、「本来あるべき健康な姿」(16-18)と、「これから出てくるであろう罪の病の症状」(19-22)という内容でした。
残念ながら、ソロモンに率いられるこの統一イスラエル王国は徐々に神の御心から離れ、崩壊へと向かっていくことになります。
しかし、主なる神は、その罪と崩壊に対する処方箋、救いの道をあらかじめご用意くださっていたのです。