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道奥 MICHINOKU せみなりお

聖書を学び、聖書で考え、聖書に生きる

第二歴代誌30-32章

第二歴代誌

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ヒゼキヤ王の呼びかけ

 

ヒゼキヤ王による宗教改革が続きます。彼は、ソロモン以来途絶えていた過越の祭りを行いました。そしてその際に、当時もうすでに国家としては崩壊していたイスラエルにも使者を送り、次のように呼びかけます。

 

 

 「…今、あなたがたは、自分の父たちのようにうなじのこわい者であってはなりません。主に服従しなさい。主がとこしえに聖別された聖所に入り、あなたがたの神、主に仕えなさい。そうすれば、主の燃える怒りがあなたがたから離れるでしょう。あなたがたが主に立ち返るなら、あなたがたの兄弟や子たちは、彼らをとりこにした人々のあわれみを受け、この地に帰って来るでしょう。あなたがたの神、主は、情け深く、あわれみ深い方であり、もし、あなたがたが主に立ち返るなら、あなたがたから御顔をそむけるようなことは決してなさいません。」(30:8-9)

 

このような呼びかけがあったにも関わらず、多くの人々が使者たちをあざ笑いました。「うなじのこわい」とは非常な頑なさを表す表現です。

 

大多数は頑なさを示す中、嬉しいことにアシェル族、マナセ族とゼブルン族のある人たちはへりくだってこの招きに応答し、南ユダの人々と心を合わせて祭りを行いました。

 

私たちの目から見て可能性が無いところにも、本当は可能性があるかもしれません。私たちもヒゼキヤのように、みことばの種を蒔くチャレンジ、誰かに声をかけて気づきを促すチャレンジをする必要があるかもしれません。

 

ヒゼキヤ王のとりなし

 

さて、過越の祭りが途絶えてからあまりにも長い時間が経過していたので、この頃には本来の方法が受け継がれていませんでした。このことについては、次のように書かれています。

 

民のうち大ぜいの者、すなわち、エフライムとマナセ、イッサカルとゼブルンの多くの者は、身をきよめておらず、しかも、しるされているのと異なったやり方で、過越のいけにえを食べてしまったので、ヒゼキヤは、彼らのために祈って言った。「いつくしみ深い主よ。このことの贖いをしてください。彼らは、心を定めて神、彼らの父祖の神、主を求めたのですが、聖なるもののきよめのとおりにはいたしませんでした。」主はヒゼキヤの願いを聞かれ、民をいやされた。(30:18-20)

 

意図的な罪、主に対する反抗は戒められるべきですが、しかし、主を求めてはいるけれどもその方法が稚拙だったり、間違っていたりする場合もあります。ヒゼキヤはそれを知って裁くよりもとりなしの祈りを選びました。私たちは誰かの過ちを知った時、どのように反応するでしょうか。主はどのような態度を喜ばれるでしょうか。それは、主がヒゼキヤの祈りに応えられたことからも明らかです。

 

ヒゼキヤ王の礼拝改革

 

エルサレムにおいてイスラエルの民は大きな喜びをもって七日間の祭り(礼拝)をし、さらにそれを七日間延長することを決議しました。ヒゼキヤは自ら進んで捧げ物をし、国のリーダーたちもそれに応答しました。

 

エルサレムには大きな喜びがあった。イスラエルの王、ダビデの子ソロモンの時代からこのかた、こうしたことはエルサレムになかった。それから、レビ人の祭司たちが立ち上がって民を祝福した。彼らの声は聞き届けられ、彼らの祈りは、主の聖なる御住まい、天に届いた。(30:25-26)

 

地上の神殿(聖所)で捧げられている礼拝は、天の聖所と直結しているようです。このように「続けたい!終わりたくない!」と思うような、圧倒的な主の臨在と喜びに満ちた礼拝はなんと麗しいことでしょうか。

 

31章に入っても宗教改革は続きます。この改革は特に「礼拝改革」であったことは前にも述べました。ヒゼキヤ王は、ダビデの時代に整えられた祭司組織のシステムを復活させます。民は十分の一の捧げ物を携えて来て、祭司とレビ人が主の律法に専念できるように支えました(4節)。その捧げ物は有り余るほどでしたが、無駄に浪費されることはなく正しく用いられたことが記録されています。

 

この時代、特にレビ人として将来主に仕える若者や幼子たちがリストアップされ、彼らに対する投資が行われている様子が見受けられます。私たちも、若者や幼子たちが主と人々を愛する器として大きく用いられることに期待し、彼らのために投資をする者でありたいと思います。

 

ヒゼキヤはユダ全国にこのように行ない、その神、主の目の前に、良いこと、正しいこと、誠実なことを行なった。彼は、彼が始めたすべてのわざにおいて、すなわち、神の宮の奉仕、律法、命令において神に求め、心を尽くして行ない、その目的を果たした。(31:20-21)

 

ヒゼキヤ王の試練と高ぶり

 

さて、これで終わりならハッピーエンドとなりますが、そうではありません。聖書は善王ヒゼキヤが経験した試練や失敗にも光を当てています。単に美談を記して彼を英雄化するのではなく、弱さや愚かさを抱えている人間をも主がお用いになることを聖書は教えようとしているのです。

 

32章では、アッシリヤの王セナケリブが攻め込んで来ます。ヒゼキヤは有名な地下水道を作り、せめぎ合いの末に勝利を得ます。歴代誌の記者は、この勝利が主の御使いによるものであり、主が守り導かれた結果であると記しています(21-22節)。その結果、ヒゼキヤはますます尊敬の目で見られるようになりました。

 

大きく用いられ、周りからも評価されることは幸いなことですが、そのような状況にあってもなお謙遜であり続けることはとても難しいことです。私たちが高ぶったり、正しい道を見失ったりする時、主は大きな試練をお与えになることがあります。

 

そのころ、ヒゼキヤは病気になって死にかかったが、彼が主に祈ったとき、主は彼に答え、しるしを与えられた。ところが、ヒゼキヤは、自分に与えられた恵みにしたがって報いようとせず、かえってその心を高ぶらせた。そこで、彼の上に、また、ユダとエルサレムの上に御怒りが下った。しかしヒゼキヤが、その心の高ぶりを捨ててへりくだり、彼およびエルサレムの住民もそうしたので、主の怒りは、ヒゼキヤの時代には彼らの上に臨まなかった。(30:24-26)

 

調子に乗っては戒められ、悔い改めると回復が与えられ、しかし再び調子に乗り…。私たちもそのようなことを繰り返しているのではないでしょうか。失敗せずに歩むことができたら良いのですが、私たちがこの地上で完全な人となることはできません。

 

しかし、それでも「速やかに悔い改める」という態度を習い覚えていきたいと思います。主は悔い改める者に対して、驚くほど憐れみ深く臨んでくださるからです。

 

 

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