道奥 MICHINOKU せみなりお

聖書を学び、聖書で考え、聖書に生きる

ローマ人への手紙4章

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行いによるのではなく信仰による義

 

パウロは、行いによってではなく信仰によって義とされるという真理について、アブラハムの実例やダビデの告白を用いて説明をします。

 

何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。(4:5)

 

 信仰義認のポイントは、自分が「何も働きのない者(自分では善い行いができない者)」であり「不敬虔な者(神に背いてきた罪人)」であることを認めることです。

 

その上で、「こんな私」を義と認めてくださる神(の恵み)を信頼するのが聖書のいう「信仰」なのです。しかも、その信仰さえも神がお与えになるものであると教えられていますから、救いは徹底的に神の業です。

 

律法によるのではなく恵みによる義

 

パウロはさらに9節から、割礼を代表とするモーセ律法を守ることによる義ではなく、恵みによる義について語ります。律法は、人を義とするためのものではなく、むしろ人が不義であることを示すためのものなのです。

 

私たち異邦人にモーセ律法は適用されませんが、しかし、良心の機能は律法に似ています。私たちは良心によって「これはいけない。やめておこう」「こうしなければならない」と考えますが、突き詰めて考えるとその良心に完全に従える人はいません。良心は「私は良心に背いている」ということを私たちに教えるのです。

 

神の約束と復活の力による驚くべき義

 

では、律法があっても良心があっても罪を犯してしまう人間に救いの希望はないのでしょうか。普通に考えたら望みはないのです。正義である神の前では、どんなに頑張っても不義でしかありえない人間に望みなどないのです。

 

しかしパウロは、アブラハムが「望みえないときに望みを抱いて信じ」(18節)たことについて語ります。アブラハムは、希望があるはずのない状況で、神の約束を信頼しました。そして「義とみなされた」(22,23節)のです。

 

それと同じように、私たちは「自分には救いの望みなどあるはずもないけれど、こんな働きのない、不敬虔な私が神の約束を信頼するなら救われる」と信頼するとき、義とみなされるのです。

 

主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。(4:25)

 

私たちが義とされるのは、主イエスが私たちの罪の身代わりに死なれ、復活されたからです。罪人を義とすることなど普通に考えたら不可能です。しかし、死者を復活させる力は、その不可能を可能とするのです。

 

皆さん、私たちが主イエスを信じるだけで罪赦され、義とされていることは普通のことではありません。本来、あってはならないほどのことが起こったのです。だからこそ、私たちは心を込めて「Amazing Grace(驚くばかりの恵み)」を歌います。そして、この恵みに応答する生涯を送りたいと心から願うようになるのです。

 

 


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