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道奥 MICHINOKU せみなりお

聖書を学び、聖書で考え、聖書に生きる

ローマ人への手紙5章(2)

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パウロは言います。

 

全人類がアダムと一緒に罪を犯した、それによって死が全人類に広がった…と。

 

そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして死が全人類に広がったのと同様に、――それというのも全人類が罪を犯したからです。(5:12)

 

アダムの罪がどのようにして全人類に伝わったのかという問いに対する答えは、聖書の真理性を信頼する神学者たちの間でもいろいろな意見があります。

 

原罪が遺伝的に受け継がれるといった考え方もありますし、アダムが全人類を代表して罪を犯したという考えもあります。しかし、両者ともに「罪に対する私自身の責任」を曖昧にするという欠点があります。私たちは「全人類が罪を犯した」と語られていることを重く受け止めたいと思います。

 

私たちはアダムと一体になって、アダムにおいて、アダムと一緒に罪を犯したのです。私たちは遺伝的な罪を受け継いでしまった被害者でもなく、代表の責任を連帯させられている犠牲者でもありません。

 

確かに、私たちが直接かつ物理的にエデンの園で罪を犯したわけではありません。少なくともそういう記憶も自覚もありません。しかし、霊的にはそこに一体性があるというのです。罪の主体者なのです。そのように聖書の語る内容を素直に受け入れるとき、私たちに福音の内容が迫ってきます。

 

こういうわけで、ちょうどひとりの違反によってすべての人が罪に定められたのと同様に、ひとりの義の行為によってすべての人が義と認められ、いのちを与えられるのです。すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。(5:18-19)

 

私たち自身が自分で罪の清算をしたわけでもないし、義なる行いをしたわけでもありません。しかし、主イエスを信じる私たちは、キリストの義と一体化され、神の目から見てキリストと同じ義をまとった存在とみなされるのです。これを「義の転嫁」と言いますが、なんという幸い、なんともったいない恵みでしょうか。

 

律法が入って来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。(5:20-21)

 

違反が増し加わるとは、違反の自覚がはっきりとするということです。そのように罪の自覚が増し加わると、恵み観が鮮やかになり、その影響力、支配力が人生の中に広がります。このことについては6章以降でさらに詳しく…。

 

聖書をどう読むかが問われています。聖書を素直にまっすぐ読むことなしに福音に生きることはできません。読者である私たちが、真の著者である神ご自身よりも優位に立って「ここはおかしい」「そんなことは信じられない」という態度を取るならば、私たちは真理を受け取り損なってしまいます。

 

信頼する態度をもってみことばに向き合うとき、深い真理に目が開かれるようになるのです。

 

よい分別と知識を私に教えてください。私はあなたの仰せを信じていますから。(119:66)

 

 

 

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