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道奥 MICHINOKU せみなりお

聖書を学び、聖書で考え、聖書に生きる

ローマ人への手紙6章

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反論を想定して…

 

パウロは前章において「罪認識が増し加わると恵み観が増し加わる」と語っていますが、今度は、彼の主張に対する反論を想定しながら筆を進めます。これは私自身も書いたり話したりするときにモデルとしている(私がうまくできているかは別にして)方法です。15節でも似たような内容が出てきます。

 

それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。(6:1-2)

 

 

パウロの想定した反論は「恵みが増し加わるためには罪にとどまり、どんどん罪を犯したら良いのではないか?」というものでしたが、「全体にそんなことはない!断じて違う!」と彼は非常に強く否定します。

 

赦されるという恵みを罪を犯し続ける言い訳に利用することは誤りであり、そのような主張と生き方をする人物が真のキリスト者であるはずがありません。

 

私たちはキリストと一体化され、十字架において罪に死に、新しく生まれました(3-4節)。これは人生に一度だけ起こる霊的な出来事です。根性や決意によって「私は明日から生まれ変わるぞ!」といったものとは全くことなります。本人が新しく生まれたとすぐに感じようと感じまいと、神が起こされる変化なのです。

 

さて、そのように新しく生まれた私たちは、自分の罪を自覚すると同時に恵みを味わうようになっていくはずです。そのような者たちも確かに罪を犯してしまうことはあるのですが、「罪を犯さないような自分に変えられたい」と願うようになっていきます。

 

そして、敢えて罪の中にとどまり続けようとか、もっともっと罪をエスカレートさせていこうとは思えなくなるはずなのです。だからこそ、今度は「現実に罪を犯してしまう自分」「罪を犯さないように変えられたい自分」との間で新生したキリスト者独特の葛藤が起こるわけです。これについては7章以降で詳しく。

 

奴隷のたとえ ー 完全に失われた支配権とまだ残っている影響力 ー

 

パウロは、ここで「奴隷」のたとえを用いて罪と私たちとの関係を説明します。

 

キリストの十字架において、キリストを信じる者の罪は死にました。死んだ存在が主人として私たちを奴隷とし続けることはありませんので、キリストを信じたときから、私たちは罪に従う「義務」がなくなりました。

 

確かに奴隷時代の癖が残っていて、罪という過去の主人の喜びそうな行動をとってしまうことはあるのですが、しかし、今やキリストという新しい主人を得て生きている存在となったのです。

 

このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。(6:11)

 

「思いなさい」という命令は重要です。これは「認め続けなさい」「計算に基づいて答えを出し続けなさい」という意味です。放っておくと私たちは別な考えを思いめぐらしてしまいます。だからこそ敢えて、意識的に、積極的に、聖書的な真理を繰り返し思い巡らすことが大切なのです。

 

言い換えると、パウロはここで「罪の支配権」からの解放と「罪の影響力(記憶に染み付いた罪深い行動パターン)」について語っているのです。支配権は完全になくなったが、影響力はある。しかし、影響力を見つめるのではなく、支配権がなくなった事実を心に焼き付けろということです。

 

あなたは最近、今日、今、どんなことを思い巡らしていますか? あなたの過去の主人であった罪は死にました! あなたはキリストのものとなったのです!

 

身分が生き方の土台となる

 

ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。(6:12-13)

 

「ですから」が重要です。もし、11節の理解をすっ飛ばしてしまうなら、罪は依然として私たちの主人であり支配者ということになります。それに基づいて「情欲に従うな」という考えをするなら、必死で自分の支配者と戦うイメージを持たなければなりません。

 

しかし、聖書が教えているのは、罪の支配下にあるかのように考え続け、いつまでもその考えに基づいた行動パターンで生きるのをやめなさいということです。そして、いついかなる時も、自分の真の主人を思い起こし、そのお方の喜ばれることに自分自身を捧げなさいと教えられているのです。

 

というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。(6:14)

 

罪を犯してしまった時ですら、罪は私たちの主人や支配者ではないとパウロは言います。これは繰り返しになりますが、すでに死亡して支配権を失ってしまった過去の主人に対して間違ってしまったと考えるべきなのです。パウロはここで、神に喜ばれる生き方をする上での神学的、思想的な土台を提供しようとしています。それは一口に言えば、神の恵みによって私たちの「身分」が一変したということです。

 

身分が変わったので、身分にふさわしい行いをするようになる…という考え方です。つまり、神に喜ばれるような生き方をしたら神に喜ばれるような身分になれるという考えではなく、神に喜ばれるような身分(義)をキリストによっていただいたので、神に喜ばれるような生き方をするようなる(義の器となる、手足を義の奴隷としてささげる、聖潔に進む)という論理です。

 

神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規準に心から服従し、罪から解放されて、義の奴隷となったのです。(6:17-18)

 

これは本当に感謝すべきことです。私たちは相変わらずいろいろと罪を犯し、愚かな面を多く持ち続けています。にも関わらず、教えの規準に心から服従して(福音をそのまま信頼して)以来、私たちの身分は「罪の奴隷」から「義の奴隷」へと完全に変えられたのです!

 

しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです。罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。(6:22-23)

 

罪を主人として一所懸命働いても報酬としてもらえるものは死です。しかし、神の奴隷、義の奴隷とされた私たちは、永遠のいのちという贈り物をいただくことができます。この身分の変化は決定的です!

 

 

 

ロイドジョンズ ローマ書講解 6章 新しい人

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