道奥 MICHINOKU せみなりお

聖書を学び、聖書で考え、聖書に生きる

ローマ人への手紙8章(1)

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罪に定められることは決してありません!

 

こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。(8: 1)

 

多くのクリスチャンが福音の本質をとらえることなく、主に会うたびに「申し訳有りません。こんな自分ですみません」と感じ、そう祈っています。しかし、この箇所にあるように、わたしたちキリストにある者はもはや罪に定められることはないのです。

 

御霊の内住によるイエス・キリストとの結びつきが、罪との結びつきを断ち切ったのです。「今は…定められることはない」とありますが、いつも信仰を持って「今が、この今だ」と受け止めていきましょう!

 

御霊に属することをひたすら考えよう!

 

肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。(8:5)

 

わたしたちキリスト者は、もはや御霊と切っても切れない関係になっています。だからこそ、御心に反することを思ったときには葛藤が起こり、御心を思いそれに生きるときには喜びを感じるのです。そういう時に「ダメだー」と思うのは逆で、「あ?私の内に御霊が住んでいるからこの葛藤が起こっているんだなー。こんな私の内に住んで離れない御霊がおられるんだなー」と意識することが大切です。

 

そして、私たちは混乱と葛藤の中でも「良くなっていきたい。御心に沿って変られていきたい」と願います。御霊は忍耐強くそのような私たちを変え続けてくださいます。この御霊に豊かに働いていただくため、御霊を思い、御霊(御言葉)に属することをひたすら思っていきましょう。

 

御霊によってからだの行いを殺そう!

 

もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです。(8:13)


ある教会では「あなたの内に罪がないかどうか探ってみなさい」と内省的になることを促すような牧会がなされています。しかし、罪は探すまでもなく全身罪まみれであるのが私たちの現実です。探ってもなかなか見つからないのはむしろ聖さの方なのです。

 

聖書が促すのはそのような類の「内省」ではありません。古い自分の肉的な性質を殺すのは、もっぱら自分の罪について考えて反省するという方法ではなく、御言葉に取り組んで専ら御霊に属することを思い、主との人格的な関係を深めるという方法です。私たちが最もすべきことは、積極的に「自分には自分を変えられない」と認めることと、自分を変えてくださる御霊の働きを信じることだけなのです。

 

神の相続人として苦難も栄光も受け取っていこう!

 

もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。(8:17)

  

我々は、栄光を受けることが約束されている相続人です。栄光とは、からだがよみがえって主と同じ姿に変えられることであり、主のありのままを見、永遠に王とされて栄光の中を生きるということです。

 

しかし、それを受ける前に苦難があるということもまた約束されています。確かに地上では苦難がありますが、神は「最高の栄光を与える!」と約束している者たちに対して悪を行われるでしょうか。そんなはずはありません。

 

迫害も、孤独も、誤解されることも覚悟しながら、相続人としての自覚を深め、相続するにふさわしいものへと整えられていきましょう。世の中で御心に従うときに起こる苦難の中で、ますます「約束されている栄光」を思い、希望を告白していきましょう。

 

 

 

受け継がれた福音のバトン

受け継がれた福音のバトン

 

 

御霊に属する人、肉に属する人

御霊に属する人、肉に属する人