道奥 MICHINOKU せみなりお

聖書を学び、聖書で考え、聖書に生きる

ローマ人への手紙12章

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ローマ人への手紙は、12章からいよいよ「実践編」に入ります。実践の前に1-8章の「福音理解」があり、9-11章の「イスラエル理解(終末論を含む)」があります。

 

そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。(12:1)

 

この「そういうわけですから」は、1-11章の内容すべてを受けています。正しい実践、焦点の合ったクリスチャン生活は、正しい福音理解を土台としたものです。

 

ここでは「あなたがたのからだを…ささげなさい」と命じられており、それこそが「霊的な礼拝」なのだと教えられています。これは、私たちのなすべき礼拝が決して日曜日行われる公の礼拝(集会)に限定されるものでないことを意味しています。私たちのからだ、日々の生活、人生そのものが神への捧げ物であり、神礼拝となるべきなのです。

 

この「霊的な…」と訳されていることばは「理にかなった」という意味のことばです。つまり、1-11章に記されているような福音を自分のこととして受け取り、それを味わっていくならば、当然、理にかなったこととして、全身全霊でその福音に応答して「礼拝人生」を生きるようになるのだ、ということが語られているのです。

 

ですから、私たちは福音を学び、探求し、味わい、分かち合い、自分自身にも告げることを続けていきたいと思うのです。そうするなら、自ずと、当然のように、私たちの生き方は変えられていきます。

 

この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。(12:2)

 

ある人々は「この世と調子を合わせない」という教えを、この世の中にある非キリスト教的なものから一切遠ざかることと理解しました。そして、映画も音楽も文学も、キリスト教的なもの以外は一切シャットアウトするという態度をとりました。それだけではなく、ノンクリスチャンとは一切付き合いをしないし、ノンクリスチャンの人々が集まる場所にはいかないという人さえいました。

 

逆に、ある人々はそのような極端なクリスチャンたちを見て眉をひそめ、「何だって良いじゃないか」と考えます。「クリスチャンと付き合うほうがかえって疲れる。ノンクリスチャンと飲み会をしているほうがよっぽど気楽だ」と主張するクリスチャンもいるのです。

 

私はどちらの態度にも違和感を覚えます。

 

問題は、この箇所が何を教えているかです。「この世と調子を合わせる」とはどういうことでしょうか。その後に何が続いているかに注目しましょう。「いや、むしろ」という否定のことばが出てきます。つまり、この後に出てくる内容の逆が「この世と調子を合わせること」です。

 

「神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新…」とあります。つまり、神のみこころ、神の目から見て良いことを考えている「心」の状態が、この世と調子を合わせていない状態なのです。仮にどこにいても、誰といても、何をしていても、このような心の状態はあり得ます。主イエスは、取税人や売春婦たちと共に食事をなさいました。だからといって、この世と調子を合わせていたわけではありません。特にヨハネの福音書などを読むと分かりますが、主イエスの心はいつも「父のみこころ」でいっぱいでした。

 

反対に、パリサイ人は一見すると「この世と調子を合わせない」生き方をしているようでしたが、しかし、心の中は極めてこの世的でした。ですから、主イエスは彼らを「白く塗った墓」(マタイ23:27)と呼び、表面を美しく装っても内面が罪だらけである彼らの偽善をあらわにされたのです。彼らの心は、プライド、見栄、競争心、貪欲、情欲、他者を裁いて見下す心、自己中心などなど、神のみこころからはかけ離れていました。

 

私たちも下手をすると、礼拝堂で賛美をささげながら「この世に調子を合わせる」ことができてしまいます。つまり、神のみこころを思わないで、別な心の状態になってしまうということです。奉仕をしながら、献金をささげながら、残念ながら講壇で説教をしながらでさえ、私たちにはそのようなところに陥る誘惑があります。だから、心の一新が必要です。でも、どうやって?

 

「心の一新によって自分を変えなさい」と訳されていますが、この箇所は、受け身の命令文です。つまり「変えられなさい」なのです。

 

1-11章に書かれている福音の内容を繰り返し味わい、ここに記されている神の恵みに信頼し、御霊の働きに積極的に自分を委ねていくならば、私たちは変えられていきます! 自分で自分を変えられない私たちを、不可能のない神様が変えてくださり、私たちは自分たちの生涯を神への礼拝として捧げて歩むようになるのです!