道奥 MICHINOKU せみなりお

聖書を学び、聖書で考え、聖書に生きる

ローマ人への手紙13章

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12章から続く、信仰生活の実践についての教えです。

 

人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。(13:1)

 

ここでは「権威」(英:power, authority  ギ:エクスーシア)についての教えがなされます。

 

権威、権力といったものに対する反発心、反抗心というものを感じる人が多いのではないでしょうか*1。それは、私たちの周りに、悪い権威、間違った権力行使が少なからず存在するからです。私たちはそれらのものによって苦しめられることがありますし、苦しめる側に回る経験もします。子ども時代には「親って横暴だ。理不尽だ。少しは子どもの気持ちにも耳を傾けてくれよ!」と思っていたのが、親になると「とにかく言うことを聞け!」と怒鳴っていたりするのです。

 

このローマ人への手紙が書かれた時代は、言うまでもなくローマ帝国が強大な権力を持っていました。この手紙の読者、ローマにいるキリスト者たちにとってすぐに思い浮かぶ権威とは、皇帝であり、ローマの官憲であったことでしょう。当然ながら、心情としてはそれらの権威を喜ばない思いが彼らの内にありました。

 

しかし、そのような中で、聖書は革命を起こすべきであると教えるのではなく、「上に立つ権威に従うべき」と教えます。そして、それらの権威はすべて「神によって立てられた」と語るのです。時の権力者は誤った判断をしたり、暴走をしたりすることもあります。「そういう時にも従うべきだと言うのか?」と考える前に、まず、自らの基本的な態度として権威を重んじているかを問うてください。聖書は、妻が夫に従うこと、子どもが親に従うこと、キリスト者が教会の指導者たちに従うことを明確に教えています。まずは、例外規定よりも先に原則規定をしっかりと押さえなければなりません。

 

そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。そうすることは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることなのです。(1テモテ2:1-3)

 

ローマ13章、1テモテ2章のみことばの共通の土台は「」です。私たちにとって良い王だから従う、私たちにとって都合の良い指導者の言うことは聞くという態度の中に、果たして「神」の存在余地はあるでしょうか。たとえ、私たちから見ていろいろと問題のある為政者、リーダーだったとしても、“その時点で”神がその人物をお立てになっていることを認め、神による任命を最大限尊重するのが私たちのとるべきスタンスです。そして、その人物のために祈り、義務を果たすのです。

 

その人物は確かに突き詰めてみると、野心、愚かさ、自己保身などの性質もいくらか持っているかも知れません。ミスをしたり、能力的に不十分であることあり得るでしょう。しかし、その人物が「あなたに益を与えるための、神のしもべ」(13:4)であることを忘れてはなりません。権威を委ねられている人物は、私たちには分からない重圧と戦っているかもしれません。また、簡単には公表できないような微妙な問題を水面下で調整しているかもしれません。私たちは気づかずにそれらのことから益、恩恵を受けているかもしれません。反対意見を表明する時にも最大限の敬意を表現しつつ謙って提案をするべきです*2。主イエスも、ペテロやパウロらの使徒たちも為政者の言いなりにはなりませんでしたが、侮辱的や反抗的な方法に訴えることも決してしませんでした。

 

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さて、私たちは、様々な場面で大小に関わらず様々な権威を委ねられた者でもあります。その際に、「私は神のしもべであることを覚え、そのように行動しているだろうか」と問わなければなりません。上に立てられた権威に従うときも、委ねられた権威を用いるときも、そこに愛が必要なのです。

 

愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。(13:10)

 

補足説明をしておきますが、害を与えないというのは、必ずしも嫌な気分にさせないことと同義ではありません。相手を一時的に嫌な気分にさせても相手の益となることを言ったり、行ったりするということもあり得ます。

 

www.logos-ministries.org

 

 (追記)私は夫として、父として、教会の指導者としてリーダーシップを委ねられていますが、私の様々な欠けにも関わらず、妻と子どもたち、教会の皆さんが、私を重んじ、尊び、愛し、とりなし、フォローしてくれていることを感じ感謝しています。

 

*1:マルクス、エンゲルスは『共産党宣言』の冒頭で「今日までのあらゆる社会の歴史は、階級闘争の歴史である」と語っている。一面の真理はある。しかし限界もある。この思想的流れを汲む人々、家族、国家といったものを半ば敵視する人々がキリスト教界にも大きな影響を与えてしまっている。労働者が革命を起こしたら階級のない社会が訪れるだろうか。権力者を引きずり下ろしたら、社会はより良くなるのか。歴史が証明しているように、革命を主導したインテリ層が新たな特権階級となる。そもそも共産主義革命は一般的な労働者の運動ではなかった。さて、聖書的な歴史観は「すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至る」(ローマ11:36)である。抑圧者と非抑圧者、支配者と非支配者、強者と弱者といった形の二者対立の構造ですべてを説明できるだろうか。聖書的人間観は、神のかたちに創造された者たちが神から離れ、「義人はいない」という状態に陥っているというものである。為政者も罪人であり、我々も罪人である。この地上における権威の行使はその罪の影響を免れ得ないが、それに対抗するあらゆる運動も同じように罪の影響を免れ得ない。権力への陶酔があるのと同じように、反権力の正義への陶酔もあり得る。そのことをわきまえつつ、御心を求めて学び続け、考え続け、主を待ち望んで祈り続け、何よりも主のみことばを告げ知らせる者として声を上げ続け、主の愛と義を表現すべく行動し続けることを追い求めたい。地上的な権力に反抗して革命を起こすのでもなく、地上的な権力に迎合するのでもなく、天上の神的権威に従い、義と愛を全うされた主イエスから目をそらさずに、このお方をもっともっと鮮やかに仰ぎ見るようになっていきたい。

*2:私個人としては、安保法制の内容や成立に向けたプロセスに問題を感じる者である。念のため加えて言えば、自民党の改正憲法草案には大いに疑義を抱いている。ただし、この法案が直ちに「戦争法案」だとか、「戦争が好きで仕方のない人々が軍国主義を復活しようとしている」といった主張はあまりにも極端であると思うし、それに与することはできないと感じている。「良い戦争も悪い戦争もない!集団的自衛権の行使とは戦争を正当化するものだ!」という主張を最近目にしたが、その論理でいけば「個別的な自衛権の行使」も戦争の正当化である。良い戦争などないのは当然であるが、私はアメリカのリバランス政策、共産党(近々、抗日戦勝記念日が祝われるが、そもそも抗日戦争に勝ったのは国民党ではないか)が一党独裁支配している中国の軍拡や海洋進出なども当然考慮して日本の安全保障の在り方を更新すべきと考えている。いずれにせよ、何よりもメシアの再臨によってもたらされる王国における真の平和を心から待ち望みつつつ、マラナタと祈り続けたい。