道奥 MICHINOKU せみなりお

聖書を学び、聖書で考え、聖書に生きる

ローマ人への手紙15章後半-16章

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ユダヤ人と異邦人

 

いよいよローマ人への手紙の終わりです。15章の後半でパウロは、ユダヤ人と異邦人というテーマを扱います。

 

私は言います。キリストは、神の真理を現わすために、割礼のある者のしもべとなられました。それは父祖たちに与えられた約束を保証するためであり、また異邦人も、あわれみのゆえに、神をあがめるようになるためです。こう書かれているとおりです。「それゆえ、私は異邦人の中で、あなたをほめたたえ、あなたの御名をほめ歌おう。」(15:8-9)

 

割礼のある者とはユダヤ人のことです。主イエスはまずユダヤ人に対して働きをなさり、神の真理を明らかになさいました。しかし、それはユダヤ人の“ためだけ”で終わるものではなく、異邦人へと広がっていきました。

 

使徒パウロの働きも同じようにユダヤ人と異邦人両方に対するものです。15章14節以下でパウロは自身の働きについて説明しています。また、15章23節以下では、異邦人教会がユダヤ人たちに仕えた実例を紹介しています。

 

私たち異邦人クリスチャンが見落としやすい重要な真理(イスラエルと異邦人について)をここからも確認することができます。

 

このローマ人への手紙の中で何度も見てきたように、神は人類救済プログラムの中で、まず全人類の中からユダヤ人が先に選ばれました。ほとんどのユダヤ人はメシヤを拒絶し、救いは先に異邦人へと及びました。これによって、旧約時代には啓示されていなかった教会(キリストにある異邦人とユダヤ人がひとつとなった群れ)が形成されました。しかし、神はユダヤ人を見捨てたのではなく、将来的には必ず救いの中に入れてくださいます。だから、異邦人クリスチャンは、(クリスチャンであれ未信者であれ)ユダヤ人を決して見下したり奇異な目で見たりせず、敬意を持って扱い、彼らのために祈るべきです。

 

エルサレムのユダヤ人教会を助けた異邦人クリスチャンについて、パウロはこう語ります。

 

彼らは確かに喜んでそれをしたのですが、同時にまた、その人々に対してはその義務があるのです。異邦人は霊的なことでは、その人々からもらいものをしたのですから、物質的な物をもって彼らに奉仕すべきです。(15:27)

 

そして、パウロ自身、この後、祝福と愛とを携えてエルサレムへと向かうのです。

 

聖徒たちの交わり

 

手紙のむすびの部分では、様々なクリスチャンたちの名前が出てきます。パウロは血も涙もない冷徹な人物ではなく、ハートフルな人物でした。

 

ケンクレヤにある教会の執事で、私たちの姉妹であるフィベを、あなたがたに推薦します。(16:1)

 

フィベは、この手紙を託されてローマに行った女性執事です。女性だからという理由でひょっとすると軽んじられるかもしれない、と考えて念入りに推薦したのかもしれません。

 

ローマ教会には、いのちの危険を冒してまでパウロを守ったプリスカとアクラ夫妻、愛するエパネト、アムプリト、非常に労苦したマリヤ、ペルシス、練達したアペレなどなど、バラエティ豊かな聖徒たちがいたようです。直接会ったことのある人々については顔を思い浮かべなら、また、間接的な交流を持っている人々の顔については想像しながらパウロはこれを書いたことでしょう。

 

あなたがたは聖なる口づけをもって互いのあいさつをかわしなさい。キリストの教会はみな、あなたがたによろしくと言っています。(16:16)

 

パウロがいかにローマの教会を愛おしみ、この教会が福音によって一致して愛し合うようになることを願っていたか分かります。日本人は口づけの挨拶をしませんが、ここにある原理に則って互いを積極的に歓迎し合い、気持よく挨拶し合うことをしたいと思います。

 

ただし例外もあります。

 

兄弟たち。私はあなたがたに願います。あなたがたの学んだ教えにそむいて、分裂とつまずきを引き起こす人たちを警戒してください。彼らから遠ざかりなさい。そういう人たちは、私たちの主キリストに仕えないで、自分の欲に仕えているのです。彼らは、なめらかなことば、へつらいのことばをもって純朴な人たちの心をだましているのです。あなたがたの従順はすべての人に知られているので、私はあなたがたのことを喜んでいます。しかし、私は、あなたがたが善にはさとく、悪にはうとくあってほしい、と望んでいます。(16:17-19)

 

分裂とつまずきを起こす人たちだけは歓迎できません。これは、教会において少数意見を排除するとか、考えや好みの異なる人を分派とみなして仲間はずれにするということではありません。「学んだ教え」にそむいて分派とつまずきを起こす人たちが問題なのです。これはつまり、福音の真理に反することで聖徒の交わりを破壊する人々です。

 

私たちの教会には「信仰告白」が明文化されています。そこに書かれていること以外については、いろいろな感じ方や考え方があって良いし、愛と節度をもってそれを発言することも許されています。聖徒の交わりは、正しい教理の範囲内でこそ安全で豊かなものになるのです。

 

ですから、「学んだ教え」にそむいて好き勝手を言って良いということではありません。福音に反する放縦な生き方が無制限に許容されるわけでもありません。もしそのようなことをする人物がいるなら、教会はしっかりと戒め、悔い改めがないなら厳しく対処すべきです*1

 

教会戒規・除籍について聖書は何と言っていますか?

 

平和の神は、すみやかに、あなたがたの足でサタンを踏み砕いてくださいます。どうか、私たちの主イエスの恵みが、あなたがたとともにありますように。(16:20)

 

この御言葉が、「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」(マタイ18:20)と同じように、戒規を教える文脈で語られていることに注目しましょう。戒規のプロセスには痛みが伴いますし、執行する側は恐れも抱きます。パウロはそれを励ます意味を込めてこのように祈ったのです。

 

21節からは、パウロの側にいる人々の名前が出てきます。パウロは一人で働いていたのではなく、多くの人びとと心通いあう交わりを持ち、協力関係の中で働いていました。なんとローマ人への手紙を書いたのはパウロではなく、テルテオだったという衝撃の事実もここで発覚します(笑)。これは、パウロのことばを書記のテルテオが口述筆記していたということです。

 

むすびの祈り

 

私の福音とイエス・キリストの宣教によって、すなわち、世々にわたって長い間隠されていたが、今や現わされて、永遠の神の命令に従い、預言者たちの書によって、信仰の従順に導くためにあらゆる国の人々に知らされた奥義の啓示によって、あなたがたを堅く立たせることができる方、知恵に富む唯一の神に、イエス・キリストによって、御栄えがとこしえまでありますように。アーメン。(16:25-26)

 

パウロはここでも「私の福音」と語っています。これは、彼が福音を勝手に発明したということではなく、受け取った福音を真に自分のものとしており、正確に握っていたことを意味します。

 

私たちを救い、変え、永遠に保つのは神ご自身です。その神は、聖書によってご自身を啓示し、聖書の福音によって私たちを義認、聖化へと導かれます。さあ、パウロとともに、私たちも「私の福音」と言えるほどに福音をしっかりと握っていきましょう。そして、この神の偉大さをほめたたえ、この神の栄光を告げ知らせることへと共に献身していこうではありませんか。

 

 

*1:「分派を起こす者は、一、二度戒めてから、除名しなさい。」(テトス3:10)

 

この御言葉を少数意見の排除のために用いてはならない。しかし、福音に逆らって分派を起こす者を見過ごしてもならない。そのようなことが起こったなら、この御言葉通りに正しく戒規を執行すべきである。