道奥 MICHINOKU せみなりお

聖書を学び、聖書で考え、聖書に生きる

エズラ記1-6章

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エズラ記を読み始めてしばらくすると気がつくのは「あれ?エズラが出てこないぞ」ということです。エズラは、紛れもなくエズラ記の主人公であり、この書の重要な部分を書き記した人物ですが、7章以降にしか登場しません。

 

約束の地への帰還

 

1章が扱っているのは、捕囚に遭っていた南ユダの民が約束の地へと帰還する出来事です。バビロン捕囚は思いがけない方法で終わりを迎えます。その終わりは、バビロニヤ帝国を駆逐したペルシヤ帝国の王、クロス*1が、主に用いられることによってもたらされます。 主は意外な人を用いられますね。

 

ペルシヤの王クロスの第一年に、エレミヤにより告げられた主のことばを実現するために、主はペルシヤの王クロスの霊を奮い立たせたので、王は王国中におふれを出し、文書にして言った。(1:1)

 

このことについては、エレミヤが既に預言していました。

 

この国(ユダ王国)は全部、廃墟となって荒れ果て、これらの国々はバビロンの王に七十年仕える。七十年の終わりに、わたしはバビロンの王とその民、――主の御告げ――またカルデヤ人の地を、彼らの咎のゆえに罰し、これを永遠に荒れ果てた地とする。(エレミヤ25:11-12)

 

まことに、主はこう仰せられる。「バビロンに七十年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにわたしの幸いな約束を果たして、あなたがたをこの所に帰らせる。わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。――主の御告げ――それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。(エレミヤ29:10−11)

 

イザヤ書にもこうあります。

 

わたしはクロスに向かっては、『わたしの牧者、わたしの望む事をみな成し遂げる』と言う。エルサレムに向かっては、『再建される。神殿は、その基が据えられる』と言う。」(イザヤ44:28)

 

みなさん、聖書の預言は必ず成就します。それらは、決して偽ることのない神ご自身のことばだからです。2章には、帰還した人々のリストが記されています。ダビデ家系に属するシェシュバツァル(ゼルバベル)が先頭に立って、4万人以上の人々が祖国に戻っていったことが書かれています。

 

神殿再建の開始

 

イスラエル人は自分たちの町々にいたが、第七の月が近づくと、民はいっせいにエルサレムに集まって来た。そこで、エホツァダクの子ヨシュアとその兄弟の祭司たち、またシェアルティエルの子ゼルバベルとその兄弟たちは、神の人モーセの律法に書かれているとおり、全焼のいけにえをささげるために、こぞってイスラエルの神の祭壇を築いた。(3:1-2)

 

祖国に帰還した翌年、秋の祭りの時期になって人々はいっせいに集まり、こぞって祭壇を築きました。ここには彼らの「自発性」「一致」が見て取れます。なんといっても心に喜びがあったのです。モーセの律法に則って祭りを行い、ダビデの規定に沿って礼拝をすることができる…。神の御心にそって神とともに歩める…。これほど嬉しいことはありません。

 

その後、神殿の基礎工事が行われますが、定礎式において年長者たちは泣きました。以前のソロモン神殿を知る人々からすれば、あまりにも貧弱な再建プロジェクトであると感じたのでしょう。それでも多くの人々の心には喜びがありました。

 

敵による妨害

 

4章1節に出てくる「敵たち」とは、サマリヤ以北に住んでいた人々です。彼らはアッシリヤの王によって異国から連れてこられた人々、また、それらの人々とイスラエル人との雑婚によって生まれた人々であったと考えられます。

 

この人々は「神殿再建に手伝いたい」と申し出ますが、2列王17:17-24を見ると、心から協力を願うような人々でなかったことは明らかです。ゼルバベルらが申し出を断ると、この人々は案の定「だったら邪魔してやる!」という態度に出るのです。このような人々は、そもそも神のご計画に仕えたいと願っていたのではなく、自分自身のやりたいことをやりたいようにしたいだけなのです。彼らを動かす力は自己顕示欲、恨み、妬みといった感情です。

 

彼らは神殿再建に携わる人々の気力を失わせようと、脅しをかけてきます。計画を妨げるため、買収工作をして反対者を増やそうとします。また、王に対して告訴状を書き、工事中止の命令が出るように働きかけるのです。結果として、この再建工事はなんと15-18年も中断されてしまいました。

 

私たちが取り組む働きがもし本当に主ご自身からのものであるなら、たとえうまく行かない時期があっても、反対する人がいても、中傷にさらされても、それをあきらめてはなりません。

 

神のことばによる再開

 

神のご計画に反対する者が完全勝利を収めることはないのです。なぜなら、神ご自身は決してあきらめないお方だからです。神殿再建の工事の槌音が再び響くようになるのです。それは、神のことばによって起こりました。具体的には、ハガイ、ゼカリヤという預言者たちが用いられました。

 

「この宮が廃墟となっているのに、あなたがただけが板張りの家に住むべき時であろうか。…万軍の主はこう仰せられる。あなたがたの現状をよく考えよ。山に登り、木を運んで来て、宮を建てよ。そうすれば、わたしはそれを喜び、わたしの栄光を現わそう。主は仰せられる。」(ハガイ1:4-8)

 

ハガイの語った預言は「神殿再建という大事なプロジェクトを忘れて、自分の家を立派に建てている場合か!」という民に対する叱責でした。そして、ハガイを通して主はリーダーたちを励まします。

 

「…ゼルバベルよ、今、強くあれ。―主の御告げ―エホツァダクの子、大祭司ヨシュアよ。強くあれ。この国のすべての民よ。強くあれ。―主の御告げ―仕事に取りかかれ。わたしがあなたがたとともにいるからだ。―万軍の主の御告げ―」(ハガイ2:4)

 

神殿も教会も、神のことばによって始まり、神にことばによって完成されるべきです。聖書のみことばによって促されて始まった働きが、時にマンネリに陥ったり、あるいは抵抗にあって弱体化したりすることも起こり得ます。意気消沈してしまうこともあるでしょう。しかし、事を成し遂げるのは人間的な力ではなく、神のことばの力であり、神ご自身の力です。

 

神殿の完成

 

さあ、いよいよ神殿再建の工事が完了しました。

 

ユダヤ人の長老たちは、預言者ハガイとイドの子ゼカリヤの預言によって、これを建てて成功した。彼らはイスラエルの神の命令により、また、クロスと、ダリヨスと、ペルシヤの王アルタシャスタの命令によって、これを建て終えた。こうして、この宮はダリヨス王の治世の第六年、アダルの月の三日に完成した。(6:14-15)

 

このプロジェクト成功の背景には、敢えて言うなら「聖なる部分」と「俗なる部分」があるように“見受けられ”ます。聖なる部分とは、礼拝や祭りの再建、聖書信仰の再建、霊的リーダーシップの再建です。俗なる部分とは、異邦人の王の理解と協力を得ること、公的な書類が整っていたことなどです。ともすると、私たちはどちらかだけを重んじてもう一方を軽んじてしまう傾向があります。

 

もう少しわかりやすく言い表すと、たとえば、聖書研究や祈りだけを重視して、役所への書類提出を怠って法令違反をしているといった状態です。あるいは逆に、手続き面、制度面を整えることや法令遵守には神経を使っているのに、主ご自身との直接的な交わりはないがしろにされているという状態です。

 

しかし、主の御心はこうです。

 

…イエスは言われた。「それなら、カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」(マタイ22:21)

 

これは聖と俗の二元論を教えているのではありません。聖書は「すべてが神のもの」という一元論です。だから、すべてのものを神に帰し、すべてのものを神に捧げるべきなのです。では、「カイザルのものはカイザルに返す」とはどういうことでしょうか。カイザル(皇帝)に税金を納めることも、法令を遵守することも、実は、神に対してお仕えする心をもってなすべき行為なのだということです。

 

私たちの生活には、聖なる部分と俗なる部分があるように“見受けられ”ます。そのどちらをも軽んじず、大切にし、すべての営みを主にお捧げする心をもってなしていきたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:キュロス2世、大クロスとも呼ばれる。