道奥 MICHINOKU せみなりお

聖書を学び、聖書で考え、聖書に生きる

エズラ記7-8章

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いよいよエズラの登場です。6章と7章以下の出来事の間に、実は55-56年ほどの時間が経過しています。聖書は必ずしも、すべての出来事を時系列に記録したり、同じ程度に詳しく扱ったりはしていません。神ご自身のご性質、ご計画、約束などを私たちに伝えることが目的です。

 

さて、エズラはどんな人物だったのでしょう。彼は、祖国の霊的回復のために仕えました。霊的回復は、すなわち聖書(この当時は律法)の権威の回復です。

 

エズラはバビロンから上って来た者であるが、イスラエルの神、主が賜わったモーセの律法に通じている学者であった。彼の神、主の御手が彼の上にあったので、王は彼の願いをみなかなえた。(7:6)

 

調べ、実行し、教えるために心を定める

 

彼はアロンの家系に属する祭司であり、律法の学者でした。

 

エズラは、主の律法を調べ、これを実行し、イスラエルでおきてと定めを教えようとして、心を定めていたからである。(7:10)

 

エズラは、聖書を調べ学ぶこと、それを実行すること、それを他の人に教え分かち合うことを実践していました。そのような生き方をするように心を定めていたのです。しかし、エズラにとって、これは簡単なことではありませんでした。なぜなら、イスラエルの霊的な状態があまりにも堕落していたからです。

 

どうして、あなたがたは、『私たちは知恵ある者だ。私たちには主の律法がある』と言えようか。確かにそうだが、書記たちの偽りの筆が、これを偽りにしてしまっている。(エレミヤ8:8)

 

律法を書写し、律法の解釈や解説を行う専門家たちが、主の律法を偽ってしまっていると以前エレミヤは警告していました。その結果、捕囚が起こり、エズラの時代に至っているわけです。

 

私たちの生きている時代も、聖書を学び、聖書を実践し、聖書を教え分かち合う上で“楽”な時代ではありません。聖書とは全く異なる日本の社会の中に私たちはいます。しかも、キリスト教界の中にも様々な教えの風が吹き荒れています。聖書を持っていても、それを捻じ曲げて都合よく解釈してしまうなら、エレミヤが警告している状態と同じになってしまいます。

 

私たちは果たしてどうやって聖書信仰をしっかりと保ち、次世代に継承していくことができるのでしょうか。その鍵となるものを、エズラの姿から学ぶことができます。

 

御手

 

エズラの働きの記録において、特に繰り返し強調されていることは「主の御手」「神の御手」の存在です。上で見た6節もそうですし、7章9節には「神の恵みの御手」、28節には「私の神、主の御手」とあります。

 

エズラと協力者たちは、断食を始めます。エルサレムに帰還する道中の無事が主の御手によって守られるよう祈るためです。

 

そこで、私はその所、アハワ川のほとりで断食を布告した。それは、私たちの神の前でへりくだり、私たちのために、私たちの子どもたちと、私たちのすべての持ち物のために、道中の無事を神に願い求めるためであった。私は道中の敵から私たちを助ける部隊と騎兵たちを王に求めるのを恥じたからである。私たちは、かつて王に、「私たちの神の御手は、神を尋ね求めるすべての者の上に幸いを下し、その力と怒りとは、神を捨てるすべての者の上に下る」と言っていたからである。だから、私たちはこのことのために断食して、私たちの神に願い求めた。すると神は私たちの願いを聞き入れてくださった。(8:21-23)

 

ペルシヤの王に警護隊を要請することもできたかもしれません。しかし、以前「私たちには主の御手がある」と宣言していたのに、目に見えない主の御手よりも目に見える王の手をアテにするのは恥であり、誤りであると考えたのです。神は、神の御手を信頼して願い求めた彼らの祈りに応えてくださいました。

 

私はこの箇所に感動を覚えるとともに、悔い改めを迫られる思いです。自分がいかに主の御手を求めることにおいて怠慢であるか…。私の神の恵みの御手があるのにそっちのけで、自分自信の手や誰かの手に頼ろうとしているか…。そして、うまくいかないと「神様、どうして?」とつぶやいてしまう…。イザヤ書のこの御言葉を思い出します。

 

見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。(イザヤ59:1-2)

 

主の御名を呼び求め、主に立ち返りたいと思います。私たちの心に、生活に、家庭や職場に、健康や経済的状況に、主の御手が介入してくださるように求めましょう。私たちが聖書を調べ、聖書を実行し、聖書を教え分かち合う生き方をできるよう、主の御手を求めましょう。すべての鍵は「主の御手」にあります。

 

 

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