道奥 MICHINOKU せみなりお

聖書を学び、聖書で考え、聖書に生きる

ネヘミヤ記1章

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ビジョンのために現状を知る

 

ハカルヤの子ネヘミヤのことば。第二十年のキスレウの月に、私がシュシャンの城にいたとき、私の親類のひとりハナニが、ユダから来た数人の者といっしょにやって来た。そこで私は、捕囚から残ってのがれたユダヤ人とエルサレムのことについて、彼らに尋ねた。(1:1-2)

 

ペルシヤの都シュシャンにいたネヘミヤに、祖国ユダヤから親類のひとりがやって来ました。ネヘミヤは、ユダヤの都エルサレムの復興の進捗について尋ねました。訊く、聞く、聴くことは知ることの第一歩です。

 

すると、この人々は次のような内容の答えをします。「確かに本国に戻りましたよ。そして、神殿も建ちましたよ。でも、私たちは非常な困難の中にいます。周りのサマリア、モアブ、アモン、ペリシテから攻められています。でも、城壁は崩されたままで、門もないんですから、彼らはやりたい放題です。 仲間割れも起こっているし、みんな疲れているし、もうやる気を失っている人も多いし、全然復興していない。どうしようもない状況です。」

 

おそらく状況を薄々わかっていながらネヘミヤは敢えて尋ねたのでしょう。これはできれば聞きたくない情報でした。しかし、現実を見聞きしてよく把握することは大切です。それを調べ、分析することも必要でしょう。ビジョンとは多くの場合、超自然的に突然夢の中でえられるようなものではなく、地道な聞き取り、実態調査などを通して与えられるものです。

 

現状に対して聖なる不満を抱く

現状を知り、情報収集をしたネヘミヤの心は、大きく変わりました。彼が耳にした内容は、彼にとって単なる客観的な「情報」ではありませんでした。「これは他人事じゃない。このままじゃいけない。 黙っていられるか。我が祖国、我らの誇りであるエルサレムの都がそんな状態なんて!」と彼はいてもたってもいられなくなったのです。

 

1:4a 私はこのことばを聞いたとき、すわって泣き数日の間、喪に服し

 

ネヘミヤは、エルサレムのことなど無視して、ペルシヤでの良い地位に留まることもできたはずです。しかし、神はネヘミヤを、神ご自身が見ておられる目線と同じ目線でエルサレムを見るよう導かれました。一般的に、不平不満はあまり良くないものとされますが、聖なる不満というものがあるのです。

 

残念ながら多くの人々が、痛み、悩み、重荷、廃墟の前で立ち尽くし、人間的な意味での不平不満の中に留まってしまいます。私たちは自分の願いが満たされないこと、自分が評価されないこと、自分が傷つけられたことをいつまでも悲しんでしまうのです。また、自ら動くことはせず廃墟の前に腰を下ろし、ただ誰かを批判したり責めたりする人々もいます。しかし、そこからは何も生まれないのです。

 

あなたの悲しみは自己中心からくる悲しみですか。それとも、主の悲しみを自らの悲しみとするものですか。

 

断食をする

さて、ネヘミヤは、エルサレムの壊滅的な状況を知り、聖なる不満を抱き、そして次に何をしたでしょうか。

 

私はこのことばを聞いたとき、すわって泣き、数日の間、喪に服し、断食して天の神の前に祈って…(1:4)

 

ネヘミヤは数日間断食をしました。この断食は旧約、新約を通じて行われてきたことですが、現代の教会ではあまり行われなくなっています。主イエスは、この断食が普通のクリスチャン生活の中にも含まれていることを語っておられたし、普段からよく断食をしておられました。

 

私たちも時に、断食、もしくは、意図的に何かを断つ(断◯)をする必要があります。何かを断つことが目的ではなく、時間と集中力を主との交わりに捧げることが目的です。

 

つまり、断食には二つの部分があるのです。一つは手放す事。食事、あるいはテレビ、インターネットなど。もう一つは、加える事。手放したものの代わりに、祈りを加えたり、特別に集中して聖書を読むこと、それを思い巡らして考えを書き留めることなどを加えるのです。

 

確信が与えられるまで祈る

 

私はこのことばを聞いたとき、すわって泣き、数日の間、喪に服し、断食して天の神の前に祈って…(1:4)

 

ある人が「すべての良きリーダーは、ネヘミヤと同じような涙の祈りを体験している」と言いました。彼は数日間断食をし、その後、今度は数ヶ月の間祈りました。この5-11節はおそらく、数ヶ月間の祈りの要約であると考えられます。

 

①嘆きの祈り(4節)    

②神告白の祈り(5節)

③悔い改めの祈り(6-7節)

④神の約束に訴える祈り(8-9節)

 

彼はこの祈りを次のように結んでいます。

 

これらの者たちは、あなたの偉大な力とその力強い御手をもって、あなたが贖われたあなたのしもべ、あなたの民です。ああ、主よ。どうぞ、このしもべの祈りと、あなたの名を喜んで敬うあなたのしもべたちの祈りとに、耳を傾けてください。どうぞ、きょう、このしもべに幸いを見せ、この人の前に、あわれみを受けさせてくださいますように。」そのとき、私は王の献酌官であった。(1:10-11)

 

嘆き、悔い改め、願い…を経て、徐々にこの祈りが凝縮され、集約され、フィニッシュに至っています。彼は「最後まで祈り切って」いるのです。ビジョンを受け取るためには、特別に時間を割いたり、何らかの工夫をしたり、他の人と協力したりして、「祈り込む」ことが重要です。

 

そして、私たちはビジョンを求める以上に、祈りの中で心を尽くして「神ご自身」を求める必要があります。私の人生設計、私のやりたい何かではなく、私をデザインして生かしてくださっている神ご自身を求め、神ご自身と親しくなり、その上で神様のプラン、考えを教えていただくのが祈りなのです。

 

忍耐強く待つ

 

ネヘミヤの取り組みには「じっと待つ」という要素も含まれていました。まず第一に、そもそも150年もの間、エルサレムの城壁は崩されたままだったわけです。第二に、ネヘミヤはこの行動を起こす前に王に20年も仕えなければならなかったのです。そして、ビジョンを求め始めた後も待たなければならなりませんでした。

 

1:1と2:1には時期が書き記されていますが、この間には4ヶ月ほどの時間があります。
4ヶ月の間、彼は何をしていたのでしょうか。忍耐して待っていたのです。ビジョンは、忍耐強く待つ人に与えられます。

 

あまりにも多くの人が、思いつきで「神様に示された」と言って何かを始め、簡単に投げ出すのです。慌てて準備した先にはいい加減なビジョンしかないし、いい加減なビジョンの先には何も良い実りがないのです。

 

本来時間をかけるべきところで急ぎすぎるなら、必ず失敗します。イエス様は、3年のミニストリーのために30年の準備期間を経られましたた。意図的に準備に当てられる時間は、決して時間の浪費とはなりません。しっかりとした土台を築くことに時間を捧げたいと思います。

 

神様はあなたにどんなビジョンをお与えになっていますか。もし、まだ与えられていないとおっしゃる方は、ネヘミヤと一緒に取り組んでみてください。主からのビジョンをすでに受けておられる方は、ブレずに、あきらめずに、その実現のため自分自身を捧げていきましょう。主がともにいてくださいます。