神のご計画の目的は、神殿や城壁の物理的な再建そのものではなく、民の霊的な再建です。8章ではいよいよ、リーダーであるネヘミヤと教師であるエズラの協力により、その再建プロジェクトが進められます。
聖書への飢え渇き
民はみな、いっせいに、水の門の前の広場に集まって来た。そして彼らは、主がイスラエルに命じたモーセの律法の書を持って来るように、学者エズラに願った。(8:1)
人々は自発的に集まってきました。皆、一つになって聖書の御言葉を慕い求めたのです。この霊的再建、霊的復興のプロジェクトが人間の業ではなく、神が神が主導されている働きであることがわかります。水の門という場所は象徴的です。人々はまさに霊的に渇いていたのです。
エズラはネヘミヤよりも14年ほど前にエルサレムに帰還し、宗教改革を行っていましたが、人々からは「厳しすぎる」と不評でした。しかし、人々は今や、エズラに「聖書を教えてください!」と願っています。これは機が熟したとも言えるでしょうし、ネヘミヤの指導の賜物(Leadership)とエズラの教えの賜物(Scholarship)のコラボレーションがなせる業とも言えるでしょう。
そこで、第七の月の一日目に祭司エズラは、男も女も、すべて聞いて理解できる人たちからなる集団の前に律法を持って来て、水の門の前の広場で、夜明けから真昼まで、男や女で理解できる人たちの前で、これを朗読した。民はみな、律法の書に耳を傾けた。(8:2-3)
ユダヤの暦、第七の月の1日目はらっぱの祭りの日であり、ここから順次、秋の祭りがやって来ます。この日は夜明けから真昼まで、御言葉の朗読と解説が行われました。「理解できる人たち」というのは、小さな子どもたちを除く皆と理解することもできますし、御言葉への飢え渇きを特にもった人々と理解する学者もいます。
彼らが神の律法の書をはっきりと読んで説明したので、民は読まれたことを理解した。(8:8)
私たちの時代においても、御言葉がはっきりと読まれ、説明され、理解される必要があります。どんな活動やイベントよりも、礼拝説教の価値が高められ、聖書研究や各々のディボーションが奨励されなければなりません。御言葉がぼやけ、教理がないがしろにされ、人間的なことばばかりが飛び交うところに、真の神の民の形成は有り得ません。
この8節は、完全な教会の集まりを指し示す描写といえるだろう。それは、人々が御言葉を聴くために集い、御言葉が尊ばれ、会衆がそれを理解するために説教者が御言葉を読んで解き明かすというような集まりである。(講解説教者、ウォーレン・ウィアーズビー)
自発的な礼拝
エズラはすべての民の面前で、その書を開いた。彼はすべての民よりも高い所にいたからである。彼がそれを開くと、民はみな立ち上がった。エズラが大いなる神、主をほめたたえると、民はみな、手を上げながら、「アーメン、アーメン。」と答えてひざまずき、地にひれ伏して主を礼拝した。(8:5-6)
人々が御言葉に飢え渇き、聖書が高い位置に置かれると何が起こるでしょうか。そこには、自発的で能動的な礼拝が起こります。人々は、自分の足下にある困難や欠乏ではなく、上におられる主を見上げるようになります。この日、神の民は、御言葉に反応して自発的に立ち上がり、手を挙げ、アーメンと唱和し、地にひれ伏しました。
主の教会において、御言葉が真の地位を回復し、それによる自発的な礼拝の復興が起こりますように。主にあるすべての教会において、御言葉の務めを委ねられている牧師、教師たちの働きが祝福され、その働きによって教会に集められた神の民が主ご自身を見上げるよう導かれますように。
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