道奥 MICHINOKU せみなりお

聖書を学び、聖書で考え、聖書に生きる

ネヘミヤ記8章(2)

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神への罪を悲しむ

 

 聖書が正しく解き明かされ、人々がそれを理解し、神を礼拝する中で、今度は何が起こるでしょうか。

 

総督であるネヘミヤと、祭司であり学者であるエズラと、民に解き明かすレビ人たちは、民全部に向かって言った。「きょうは、あなたがたの神、主のために聖別された日である。悲しんではならない。泣いてはならない。」民が律法のことばを聞いたときに、みな泣いていたからである。(8:9)

 

聖書を理解した結果、悲しみが溢れ出てきました。これは正しい反応です。

 

神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。(ヘブル4:12)

 

聖書を読み、学ぶ時、私たちは、自分でも自覚していないような問題に御言葉が鋭く切り込んでくる経験をします。そして、以前はなんとも思っていなかったようなことについて、罪を自覚し、悲しみを抱くようになるのです。

 

神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。(2コリント7:10)

 

悲しみには二種類あります。まず、世の悲しみとは、神のみこころに添わない悲しみです。ただ単に自分を憐れんだり、神の恵みを忘れてただ嘆き悲しむことがそれに含まれるでしょう。もう一つは、神のみこころに添った悲しみです。この悲しみにおける焦点は自分ではなく、神です。神の心の痛み、神の心にある悲しみを思って泣くのです。

 

自分の罪を悲しむといっても、実は、世の悲しみの文脈の中で悲しんでいるケースもあります。罪の結果として起こった災いや不自由や恥を悲しんでいるだけということがよくあります。しかし、真の悲しみは「神様に対して申し訳ないことをした」という思いを伴うのです。

 

 

救いの主を喜ぶ

 

ネヘミヤとエズラは泣いている人々に「もう泣かなくていいんだ!悲しむのをやめなさい!」と語りかけます。

 

さらに、ネヘミヤは彼らに言った。「行って、上等な肉を食べ、甘いぶどう酒を飲みなさい。何も用意できなかった者にはごちそうを贈ってやりなさい。きょうは、私たちの主のために聖別された日である。悲しんではならない。あなたがたの力を主が喜ばれるからだ。」(8:10)

 

悲しんでいる人々に向かって「パーティーをしよう!」と語るのは不思議な気がします。これは「主を喜ぶ」ためのパーティーです。ここでいう「主」とは「ヤハウェ」すなわち、ご自身の立てられた契約を重んじ、救いを完成されるお方です。

 

罪を悲しむことは聖書理解の前半といっても良いでしょう。後半の理解は、救いを理解することです。すなわち、自分自身がどうしようもない罪人であることを悟り、しかし、その私のどうしようもなさを遥かに越えるスケールの真実な愛で神が私を想い、ご自分の元へと引き寄せてくださるということを悟るのが聖書理解です。

 

民は自らの罪を悲しみつつ、しかし、「主(ヤハウェ)を喜ぶことはあなたがたの力」(10節、口語訳)であると「…理解した」(12節)のです。そして、彼らは喜びました。 正しい悲しみも正しい喜びも、主が御言葉を用いて私たちに与えてくださるものなのです。

 

 

深みへの追求心

 

二日目に、すべての民の一族のかしらたちと、祭司たち、レビ人たちは、律法のことばをよく調べるために、学者エズラのところに集まって来た。こうして彼らは、主がモーセを通して命じた律法に、イスラエル人は第七の月の祭りの間、仮庵の中に住まなければならない、と書かれているのを見つけ出した。(8:13-14)

 

救いの喜びを味わった人々は、聖書をもっと調べようとするようになります。そして、新しいことを見つけ出すのです。あなたはクリスチャンとして、最近、どんな新しい真理を学んでしょうか。それを求めているでしょうか。それはクリスチャンとしての健康のバロメーターになるかもしれません。

 

 

従う喜び

 

捕囚から帰って来た全集団は、仮庵を作り、その仮庵に住んだ。ヌンの子ヨシュアの時代から今日まで、イスラエル人はこのようにしていなかったので、それは非常に大きな喜びであった。(17節)

 

それにしても、仮庵の祭りといった重要なイベントがすっかり忘れ去れていたのは驚きです。しかし、人間はそれほどに愚かなのです。

 

中世のカトリック教会において、聖書の権威は失墜し、救いの教理は踏みにじられていました。その中で宗教改革が起こり、聖書の権威と信仰義認の教理が復興します。しかし、あれから400年が経過した今、私たち教会は、聖書を高い位置に置き、聖書から受けるチャレンジによって動かされているでしょうか。

 

御言葉を聴く喜びというものがある。しかし、従う喜びはそれ以上である。(講解説教者、ウォーレン・ウィアーズビー)

 

私たちが、ここで言われているような種類の「非常に大きな喜び」で満たされた神の民として従順に歩むことができますように。