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道奥 MICHINOKU せみなりお

聖書を学び、聖書で考え、聖書に生きる

ジョナサン・エドワーズについて(1)

随想 弁証論 神学 読書

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アメリカの歴史を代表する神学者、哲学者、牧師であったジョナサン・エドワーズですが、私たち日本人にとってあまり馴染みのある存在ではありません。あ、三段跳びのオリンピック選手と同じ名前ですね。そっちの方がお馴染みかな?

 

合衆国建国の父といえば、ジョージ・ワシントン、ベンジャミン・フランクリン、トマス・ジェファーソンらが有名ですが、このエドワーズを「合衆国の精神的な父」と見る人もいるほどで、彼はプリンストン大学の第三代学長でもありました。最近、いくつかのきっかけが重なって、このエドワーズの伝記や説教、著作を続けて読み、いろいろと考えさせられています。

 

エドワーズの最も有名な説教は「怒れる神の御手の中にある罪人」(Sinners in the Hands of an Angry God)というものです。これは、ピューリタン文学の代表作として、アメリカの高校、大学の英語の授業でよく用いられるものです。この説教の主題は、人間中心主義*1に染まりきってしまった現代のキリスト教界においては、語られることが非常に少なくなっている「神の怒り」「人間の深刻な罪」「地獄」などです。

 

皆さんはそのようなテーマの説教を聞くのが心地よいでしょうか…。そんなわけありませんよね…。エドワーズにとっても、これを語ることは簡単ではなかったでしょうし、快いことではなかったでしょう。しかし、人々が真に心から悔い改め、真に福音の喜びに満たされるためには、このような宣告がどうしても必要だったのです。

 

エドワーズの時代もそうでしたが、現代でも「罪」を語るには勇気が要ります。悪の存在は解き難い知的難問であり、心をえぐる現実でもあります。たとえばこんな問いを考えてみてください。なぜ、義なる神は世界に罪が蔓延するのを許しているのか。罪人であるとはどういう意味か。すべての人が罪を犯すのか。もしそうなら、人間の道徳的堕落は何に由来するのか。人間には悪魔的なDNAのようなものがあって、それが遺伝するのか。それとも、人間はみな悪しき先例から影響を受けて罪を犯すのか。

 

エドワーズの見るところ、これらの問いはあまりにも難しくて、啓蒙時代*2 のあらゆる知性を集約してもまったく歯が立たないほどです。

 

この世界に罪が存在することの唯一妥当な説明は新奇な知識ではなく古くからの教理、すなわち原罪の教理から来る、というのが彼の確信でした。

 

しかし、近代人にそんなことを納得してもらえるでしょうか。新しい知見が人々の心を捕らえ、伝統などというものは捨て去ろうとしている社会です。そんな古色蒼然とした教えに、いったい誰が振り向くというのでしょうか。

 

…エドワーズも、原罪が心楽しい教理ではないことを認めています。たしかにそれは、悲観的で不愉快な話ですし、そら恐ろしくもあります。しかしまたそれは、現実的で、聖書的で、人間を永遠の滅びから救うのに不可欠な教理なのです。エドワーズはあらゆる困難さにもかかわらず、原罪の教えが現実世界の真理を伝えていると信じていました。それなしには真のキリスト教は消え失せ、救いの道も失われるだろう、というのです。

 

(『はじめてのジョナサン・エドワーズ』ジェイムズ.P.バード著、森本あんり訳、教文館)

 

 

はじめてのジョナサン・エドワーズ

はじめてのジョナサン・エドワーズ

 

↑ 国際基督教大学(ICU)副学長の森本先生によって翻訳された入門書、非常にわかりやすくオススメ! 

 

 

『怒れる神の御手の中にある罪人』(Wikisourseからの引用)

 

説教「怒れる神の御手の中にある罪人」

申命記32章35節 ー彼らはその時すべるー*3

 

この聖句で、邪悪で不信仰な民に対して、真の神の報復が近づいていることが示されています。この民は目に見える神の民であって、恵みの礼典の中に住み、主の力あるみわざを見ていたにも関わらず、思慮分別に欠けていました。神に育成されていた民が毒の実を結んでしまいました。


1. すべりやすい場所にいたら、転ぶのは当然です。「まことに主は彼らをすべりやすいところにおき、かれらを滅亡に陥れられます。」(詩篇73:17)

 

2. 滅びは突然です。「主は彼らをすべりやすいところにおかれ、彼らは突然に滅ぼされます。」(詩篇73:19)

 

3. 誰かの手によらなくても、自分で倒れてしまいます。


4. 彼らがまだ倒れていないのは、その時が来ていないからに過ぎません。

 

ここで語っているのは、人間はそのままでは滅びるしかないので、いま地獄に落ちていないのは、ただ神のみこころによるということです。


さらに理由をのべます。

 

1. 神様が人間を地獄に落とす力に不足なさることはありません。

2. 人間が地獄に落とされるのは当然の報いです。

3. 人間は地獄に落ちるという有罪宣告をすでに受けています。

4. 人間はすでに地獄の苦しみにおいてあらわされている、神の怒りの対象となっています。

5. 彼らは悪魔の所有物なので、神がその守りをやめてしまわれた時に、彼らを滅ぼすために悪魔は待機しています。

6. 神を信じない人の魂には、地獄の因子があります。罪が抑制されないままになると、燃える地獄になります。

7. すぐに死んでしまうような原因がないように見えても、神を信じない人にとって、安全地帯はありません。まだ回心していない人は、地獄の上にわたされた腐った板の上をあるいているようなものです。

8. 生まれながらの人が努力しても安全を得るためには無駄です。

9. キリストを信じないで、邪悪の中に留まっている人たちが、地獄に落ちないように努力しても、守られることはありません。でも人間は自分が地獄に落ちないと思っています。愚かな人間は自分の力、自分の知恵に対する幻想を持っています。

10. 真の神は生まれながらの人間が地獄に落ちないようにする義務を持っていません。永遠のいのち、救いについて、キリストの恵みの契約以外に、約束はありません。キリストを信じるようになるまでは、その人が敬虔なふるまいをしたとしても、神にそういった人たちを永遠の地獄から保護する義務はありません。

 

生まれながらの人は、神の御手の中で地獄の上に吊り下げられています。地獄が彼らにふさわしく、地獄に落ちる有罪宣告はすでに出ています。神は激しく怒っておられるのであり、その神の怒りは現時点でよみで苦しんでいる人たちが受けている怒りと同等のものです。そして、彼らは神の怒りから逃れるために必要なことをしておらず、神にそういった人たちを支える義務はありません。悪魔が待機していて、地獄は彼らを呑みこむのを待っています。彼らをのみこむ炎が燃えています。人の中の火はあらわになろうとしています。彼らは仲保者を知らず、守るものはありません。逃れ場もなく、ささえる手すりもありません。いま彼らが地獄に落ちないようにしているのは、彼らに対して激しく怒っておられる神のみこころ、忍耐だけです。

この主題は恐ろしいものですが、まだ回心していない人たちの目を開かせるためです。ここで語られたことは、キリストを信じていないすべての人に適用される問題です。


悲惨な世界の地獄の池は、あなた方のすぐそばにあります。神の怒りの燃える恐ろしい地獄が開いています。けれども、立っている場所も、身をささえる手すりもありません。地獄とあなたの間には空気しかないのです。ただ神の御心と御力によって、そこにまだ落ちていません。


これが現実のこととは思われないかもしれません。いま地獄にいないことを知っていても、それが神の御手によることを知りません。ふだんの健康や生活について考えています。しかし、それはささいなことに過ぎず、神が支えている御手をどかされると、あなたを支えるものはありません。

 

邪悪なあなたがたは重いので、そのまままっさかさまに地獄に向かいます。神が御手をのかされると、そこに落ちてしまいます。健康について思い、計画を立て、善良に振る舞っても、それはクモの巣が石の落下をとめられないように、地獄に落ちないようにすることはできません。神が保っておられなければ、地があなたを支えることはありません。地にとってあなたは重すぎて、被造物は苦しんでいます。被造物は堕落したあなたを嫌っていないわけではありません。太陽は、罪とサタンの奴隷であるあなたがたを照らしたくはなく、土地は、罪の欲望を満足させるための実りを与えたくはないのです。空気は、神の敵であるあなたに呼吸させたいわけではありません。神が創造なさったものはよいものであったので、本来は神に仕える人間のためのものですが、悪い事のために用いられるときは苦しむのです。神の御手がなければ、この世界はあなたを吐き出します。神の怒りが悪天候のように、近づいています。神がその嵐を制御されなくなれば、籾殻を吹き飛ばすように、あなたを吹き飛ばします。


神の怒りは、氾濫しそうになっている川のようです。その水かさがまして川が長時間せきとめられれば、その時間が長いほど、水の勢いは激しくなります。今まであなたの悪に対する裁きはまだとどめられていましたが、あなたはさらに罪に罪を重ねたので、神の怒りはましています。水かさはさらにましています。この水をおさえているのは神の御心にほかなりません。神がこれをおさえている御手をはなされた時、神の怒りの洪水があなたを直撃します。あなたにいくら力があって、仮に地獄の悪魔より強力な力を有していたとしても、これに耐えることなどできません。


神の怒りの矢が弦につけられ、弓は引かれ、裁きの矢があなたの心臓を的として狙っています。この矢があなたの血に酔わないようにしているのは、何の義務もないのに、それをとどめている怒れる神の御心だけです。罪に死んだ状態から、聖霊によって新しく生まれていない人は、すべて、怒れる神の御手の中にあります。よい生活を送って、宗教的な心をもって、家庭、自室、教会で宗教的な儀式を行なっても、いま永遠の地獄に落ちていないのは、それが神の御心だからです。


これが事実であると思えなくても、それを認めるしかなくなります。そのような状態で死んだ人たちが経験したことです。そのような人たちは、彼らが思ってもいないときに滅んでしまいました。平安だ、平安だ、と言っていた時に滅んでしまったのです。彼らが安全のためにとった行動は無駄でした。


蜘蛛や気持ち悪い虫を人間は嫌います。地獄の上にあなたを吊り下げておられる神も、あなたを嫌い、怒っておられます。神の怒りはあなたに向かって燃えています。神にとってあなたは地獄の火になげこまれるだけの存在なのです。聖なる神の目はあなたの悪を見るに耐えません。あなたは毒蛇のように忌まわしい存在です。反逆者が王を怒らせるよりも激しく、あなたは神を怒らせてしまいました。それでも、神の御手はあなたをまだ地獄に落としていません。あなたが昨日地獄に落ちずに、朝起きる事ができたのも、また、朝起きてからまだ地獄に落ちていないのも、神の御手です。教会に来ても神を怒らせている罪深いあなたが、今まだ地獄に落ちていない理由はそれだけです。


罪深い人よ!あなたが直面している恐ろしい危険について考えなさい。神の怒りの火の炉の上に、あなたは神の御手で吊り下げられています。神のはげしい怒りはすでに滅んだ人たちに対するのと同じように、あなたにも向かっています。あなたは細い糸で吊り下げられているようなもので、神の怒りの炎によって、その糸は切れそうです。しかし、あなたは仲保者を知ろうとせず、神の怒りからのがれるすべをもたず、あなたが赦され、神様に評価されるために必要な行ないはなにもありませんでした。


次にこのことを考えてください。


1. これは誰の怒りですか。無限の神の怒りです。最高権力者のものであっても、それが人間の怒りであれば気にしなくても良いかも知れません。専制君主は生殺与奪の権限を行使するので、その怒りは恐ろしい事があります。箴言20章2節に「王のいかりは獅子のほゆるがごとし、彼を怒らす者はおのれのいのちを害う」とあります。暴君を怒らせた家来は、人間が考えた拷問を受けるでしょう。しかしその地上の権力者がみいつをまとっていても、天地の創造主からすれば蛆虫に過ぎません。地上の権力者が怒っている時でも対応は難しいのです。それでも、すべての権力者は神の御前ではイナゴ、無に等しい存在、いやそれ以下であり、彼らのいだく愛も憎しみも嫌悪の対象です。偉大な威光をまとった王の王であられるお方の怒りは、地上の者らと比べものにならないほど恐ろしいのです。「我が友たる汝らに告ぐ。身を殺して後に何をも爲し得ぬ者どもを懼るな。懼るべきものを汝らに示さん。殺したる後ゲヘナに投げ入るる權威ある者を懼れよ。われ汝らに告ぐ、げに之を懼れよ。」(ルカ12:4-5)


2. あなたが直面しているのは、神の激しい怒りです。聖書には神の激しい怒りについて書いてあります。「かれらの作にしたがひて報をなし敵にむかひていかり仇にむかひて報をなし また島々にむくいをなし給はん」(イザヤ59:18)、「視よ主は火中にあらはれて來りたまふその 車輦ははやちのごとし 烈しき威勢をもてその怒をもらし火のほのほをもてその譴をほどこし給はん」(イザヤ66:15)、「また自ら全能の神の烈しき怒の酒槽を踐みたまふ。」(ヨハネ黙示19:15)このみことばは、とても恐ろしいです。ただ「神の怒り」としか書かれていなくても、非常に恐ろしいことだったでしょうけれども、さらに「神の激しい怒り」と書かれてあります。神の激しい怒り、主の激しさ。おお、それは何と激烈なものでしょう。ここで表現されている意味を、ことばで説明し尽くすには限界があります。しかもここに、「全能の神の激しい怒り」と書かれています。はげしく怒った神が御力を行使される有様の表現です。その結果はどうですか。神の怒りを受けるあわれな虫けらは、どうなりますか。脱力しませんか。誰の心であっても、耐えることなどできないでしょう。その怒りを受ける人たちは、考えようもない苦しみに落とされるほかないのです。

 

ここにいる人で、聖霊によって新しく生まれていない人たちは、考えてください。神が怒りに燃えられるというこの意味は、あなたにあわれみもなく怒りを向けられるということです。神は永遠の暗闇に落ちて行くあなたに対して同情などなさいません。神は怒りをもって報い、それが軽減されることもなく、一切の手加減もあわれみもないのです。正義が要求する報いを公正に与えることの他に、あなたへの苦しみの耐えがたさを考慮されることはありません。(エゼキエル8:18「わたしはおしまず、あわれまない」(エゼキエル8:18)とあります。しかし、いま現在はあわれみの時です。ただし、このあわれみの時が過ぎると、あなたが苦しんで叫んでも、無駄です。神に完全に捨てられます。神はただあなたに苦しみを与えるだけです。その理由は、あなたが滅ぼされるにふさわしい、怒りの器だからです。

 

容器に例えられますが、あなたは神の怒りが満たされるために使用される容器だということです。神は、あなたが苦しんで声を出すと、あわれむこともなく、ただ「笑い、あざける」(箴言1:26)のです。偉大な神のみことばは恐ろしいものです。「われ怒りによりてかれらをふみ、いきどおりによりてかれらを踏みにじりたれば、かれらの血わが衣にそそぎ、わが服飾をことごとく汚したり」(イザヤ63:3)これ以上に、人への侮蔑、憎悪、憤りの激しさをあらわした表現は考えることはできないでしょう。神に慈悲を求めても、神は悲しいあなたをあわれむことなく、踏みにじるだけなのです。全能の神はあなたが踏みつけられてその重荷に耐えられないのを十分にご承知の上で、あなたを踏みにじられます。神に踏み砕かれたあなたの血は飛び散り、神の衣は返り血で汚れてしまいます。神はあなたを憎み、軽蔑されます。あなたは泥と同じ存在であり、踏みつけられるにふさわしいのです。

 

3. あなたがたが直面する苦しみは、主なる神の怒りが示されるためです。神は御使いと人間に対して、その至高の愛と、すさまじい怒りを示されます。この世の王は怒らせた者に刑罰を与え、その怒りを示すことがあります。傲慢なネブカドネザルは、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴに対して怒ったとき、怒りを示すのを、ためらいませんでした。そのため彼らを投げ込む炉を、普段の7倍も熱く燃やすように命じました。その炉は人間の技術で熱くなりました。偉大な神は恐るべき力で、神の敵が受ける極度の苦しみによって、神の怒りを示そうとしておられます。「もし神怒りをあらわし、その力をしめさんために、ほろびにそなわれる器を永くたえ忍ぶことをなしたまえば、いかならむ」(ローマ9:22)と書いてあります。主の心からの激しさ、怒り、憤りがどれほど恐ろしいかを示すことは、神の御旨なのですから、神はその通りなされます。見る者には恐ろしいことでしょう。

 

怒れる神の御手の中にある罪人 - Wikisource

 

この説教を読んだ上で、以下のみことばを味わってみましょう。

 

私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。(ローマ5:6-9)

 

自分がいかに不敬虔で不遜な者であるか、いかに滅びが当然であるかを思いながら読むなら、キリストの死、キリストの血による「救い」の重みは全く変わってくるはずです。

 

パウロは「罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました」(ローマ5:20)と語りましたが、それは多く罪を犯すことを勧めているのではなく、「正しい罪認識の増すところには、豊かな恵み理解が満ち溢れる」ということを言っているのです。

 

かつてキリスト教国として知られた国々や、日本においても、多くの教会の働きが奮わず、生気を失っています。その最大の原因は、キリスト者自身がこの福音を深く味わっていないところにあるように思います。ジョナサン・エドワーズは、18世紀のアメリカにおける霊的覚醒を主導しました。それは人々の心理を操作するような巧みなパフォーマンスではなく、ただただ徹底して聖書を研究し、聖書に基づいて考え、それを感動をもって解き明かすことによってなされました。

 

私たちも今、彼の説教に、いや、何よりも御言葉の宣告に真剣に耳を傾け、福音を再発見する必要があるのではないでしょうか。私自身、もっともっと福音を味わい、福音にふさわしい生き方へと変えられていきたいと改めて思わされています。

 

 

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それでは如何に生きるべきか?西洋文化と思想の興亡

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神なき時代のキリスト者

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*1:本来の「神中心」を捨て、人間こそがすべての中心であると考える立場。キリスト教界においても、残念ながら人々の主要な関心が「神の栄光」「神の御心」ではなく、人間の得る慰め、幸い、安心などへと大きくシフトしてしまっているように思える。しかし、私たちは、神中心に立ち返るところに、真の人間性の回復があることを思い起こさなければならない。

 

http://subsite.icu.ac.jp/people/morimoto/Texts/Tomo19.pdf

*2:啓蒙時代(けいもうじだい)は、ヨーロッパで啓蒙思想が主流となっていた17世紀後半から18世紀にかけての時代のこと。 啓蒙思想とは、聖書や神学といった従来の権威を離れ、理性(悟性)による知によって世界を把握しようとする思想運動である。(wikipediaより)

*3:欽定訳聖書の翻訳による。新改訳では「復讐と報いとは、わたしのもの、それは、彼らの足がよろめくときのため。彼らのわざわいの日は近く、来るべきことが、すみやかに来るからだ。」となっている。