道奥 MICHINOKU せみなりお

聖書を学び、聖書で考え、聖書に生きる

第一コリント1章

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キリストにあるアイデンティティ

 

コリント教会は問題の多い、混乱した教会でした。パウロはそれらの問題を見過ごせない深刻なものととらえていました。しかし、彼はコリント教会を「どうしようもない、失格した、絶望的な教会」とは見ていなかったようです。

 

コリントにある神の教会へ。すなわち、私たちの主イエス・キリストの御名を、至る所で呼び求めているすべての人々とともに、聖徒として召され、キリスト・イエスにあって聖なるものとされた方々へ。主は私たちの主であるとともに、そのすべての人々の主です。(1:2)

 

問題を抱えていても、コリント教会は「神の教会」であり、「聖徒」たちなのです。パウロは、彼らが「キリストにあって豊かにされた者」(5節)「イエス・キリストとの交わりに入れられた(存在)」(9節)であると語ります。ここで強調されていることは、キリストにあるアイデンティティです。パウロは、コリントにあるクリスチャンの群れが一体「キリストにあって何者とされているか(being)」を強調し、その上で、キリスト者として「どうすべきか(doing)」を教えています。この順序は非常に大切です。

 

私たちは、自分たちの言動(doing)の善し悪しによって存在(being)が定義付けられると感じます。「悪いことをしてしまったから悪い存在だ」「あの人はあんなに立派な行いをしているから立派な人だ」「〜さんは、あんなに能力があるから価値がある」と…。これは、いわば“行いにあるアイデンティティ”です。

 

しかし、聖書的な思考は「こんな私がただキリストのゆえに罪赦され、義とされ、神の子とされ、聖徒という立場が与えられている!」という、“キリストにあるアイデンティティ”に重きを置きます。その確信が強まっていくとき、私たちはその立場にふさわしい生き方をするように変えられていくのです。

 

 

キリストにある一致

 

さて、兄弟たち。私は、私たちの主イエス・キリストの御名によって、あなたがたにお願いします。どうか、みなが一致して、仲間割れすることなく、同じ心、同じ判断を完全に保ってください。(1:10)

 

コリントの人々は、パウロ派、アポロ派、ペテロ(ケパ)派、キリスト派という風に分裂しつつあったようです。指導者たちの存在は重要ですが、当然ながら「キリスト>指導者」でなければなりません。指導者たちは、人々を自分に従わせるのではなくキリストに従わせるよう導かなければなりません。パウロは「ただキリストによる一致」を訴えます。

 

 

十字架の福音の力、知恵

 

十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。…ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。(1:18, 22-24)

 

ユダヤ人は「イエスがメシヤである“しるし”」を見せろと言います。「イエスは神の国をもたらすことなく死んだじゃないか」という主張です。また、ギリシヤ人をはじめとする異邦人たちは「論理的、哲学的に納得がいくように説明しろ」と言います。そして、どちらも十字架の福音を受け入れようとはしません。これは残念ながら多くの日本人にも共通して見られる態度です。

 

十字架の死は、すべての恥ずべき不名誉なことを連想させるもので、救いが、十字架につけられたある人の苦しみと死によってのみ来る、と語ることは、彼ら(人々)の胸中に、ただ軽蔑の念を抱かせたのである。(神学者・牧師、アルバート・バーンズ)

 

そのような十字架の福音を信じるように導かれキリストにある者とされたコリント教会の人々が、自身の真のアイデンティティに目覚め、それにふさわしく歩むことを、パウロは切に願っていたのです。

 

しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。まさしく、「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。(1:30-31)

 

 

In Christ Alone

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Keith & Kristyn Getty "In Christ Alone" - YouTube