道奥 MICHINOKU せみなりお

聖書を学び、聖書で考え、聖書に生きる

第一コリント2章

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パウロは、彼がコリント教会を設立した際のことを思い起こさせます。

 

さて兄弟たち。私があなたがたのところへ行ったとき、私は、すぐれたことば、すぐれた知恵を用いて、神のあかしを宣べ伝えることはしませんでした。なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。(2:1-2)

 

パウロの説得力は、雄弁さや人間的魅力にあったのではなく、ただキリスト中心のメッセージにありました。彼は弱く、恐れおののいてすらいたのです(3節)。

 

そして、私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行なわれたものではなく、御霊と御力の現われでした。(2:4)

 

パウロが自身の弁舌の説得力によって人々を納得させたのではなく、御霊の力が人々に働き、人々は信仰へと導かれたのです。そのようにして与えられた信仰は、その後も神の力によって支えられます(5節)。しかし、人間的な操作や作られた雰囲気などによって“決心”をさせても、それは真の生まれ変わりではないゆえ、どこかで行き詰まってしまいます。

 

あるクリスチャンのグループにおいては、このようなことが奨励されています。神、罪、救いに関するシンプルな“福音”を相手に語って「分かった? 信じる? 信じるなら、私の後について祈ってね」と、祈りを促すのです。そして、その祈りを祈った人はクリスチャンとみなされます。*1その祈りの内容とは「神様、私はあなたに対して罪を犯してきました。どうかお赦しください。…イエス様、今、私の心にお入りください。あなたを受け入れます。…感謝します。私は今日からクリスチャンです…」といったものです。

 

この祈りは「Sinner's Prayer(罪人の祈り)」とも言われます。伝道集会などでも、メッセンジャーが感動的な説教をした後、“決心者”に同じような祈りを促すことがあります。しかし、これは本当の「信仰告白」でしょうか。押しに弱い人なら、よく分かっていなくても「はい。分かりました。祈ります」となってしまうのではないでしょうか。感情的に高揚しているだけの場合もあるでしょう。「こういうお祈りをすれば天国に行けるよ」と言われたら、真の悔い改めとキリストに対する信仰が一切なくてもその“便利な”祈りを祈る人がいるのではないでしょうか。

 

すべてがそうとだは思いませんが、しかし、このような方法で“伝道”がなされ、あまりにも拙速に「◯◯さんが救われました!」「〜名が“決心”しました!」と報告されることは、パウロがここで言っている内容と調和しません。*2

 

罪を告白し信仰を言い表すのに、どうして誰かの後について“台詞”を言わなければならないのでしょうか。例えば、A太郎さんがB子さんにプロポーズをするときに、A太郎さんのお母さんが一緒について来て彼の横で台詞を教え、A太郎さんはその台詞をそのままリピートしたとします。B子さんはそれを真実な告白として受け止めることができるでしょうか。(心の中の独り言:以前、どこかの有名料亭の不祥事謝罪会見で、似たような場面があったなぁ…)

 

私たちの教会の入門バイブルスタディーを導くリーダーたちに対して、私が繰り返し強調していることは「学んでいる人に信仰告白を“させない”ように」ということです。これはどういう意味かというと、人を信仰告白へと導くのは聖霊の働きなので、「人為的」にそれをさせないように気をつけるということです。

 

しっかりと福音を伝え(これには大抵、それなりの時間と回数を要する)、もし、その人に御霊が働きかけてくださり、その人が御霊によって新しく生まれさせられたなら、その人自身が自発的にしっかりとした信仰告白をするに至ります。機が熟した時「どんな祈りでも良いから神様に向かって祈ってみませんか?」と促すとき、その人が自分自身の表現で明確な信仰を告白する場面を何度も見てきました。私たちはそれを見てまさに「御霊と御力の現れ」であると、主をたたえるのです。

 

私たちの語るのは、隠された奥義としての神の知恵であって、それは、神が、私たちの栄光のために、世界の始まる前から、あらかじめ定められたものです。(2:7)

 

この2章には「隠された奥義」「神の知恵」「神のみこころのこと」「御霊のこと」「御霊に属すること」「主のみこころ」など、人間的な知恵によっては知り得ない霊的真理を意味する表現が繰り返し出てきます。

 

私たちにその真理を理解させるのは、ただ御霊の働きです。特別な幻や奇跡的な癒しなどを「聖霊体験」として重要視する人々がいますが、最も偉大な聖霊体験は、聖霊によって真に御言葉を悟ることです。それがなければ人は真に救われることもないのです。

 

生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。(2:14)

 

アメリカ史上最大の神学者、ジョナサン・エドワーズはこのことを「聖なる超自然の光」と題する説教で詳しく扱いました。これは、ペテロがイエス様に対して「あなたは、生ける神の御子キリストです」と告白をした後、それに答えてイエス様が語られた以下の御言葉の解き明かしです。

 

するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン(ペテロ)。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。…」(マタイ16:17)

 

イエス様がどなたであるかという真の理解は、神ご自身によって明らかに示されるものです。私たち人間は確かに御言葉を取り次ぎ、福音を伝えますが、あくまで道具として用いられる存在です。そこに神ご自身の超自然的な働きがなければ、人は決して聖書の真理、福音を理解することがないのです。

 

もし、あなたが、多くの人々にとってつまずきであり、愚かである十字架の福音について心から「アーメン」と言えるならば、そして、そのことに感謝と感動を覚えているならば、あなたはまさに聖霊の超自然的で偉大な力を体験しているのです!

 

 

  

何からの救いなのか

何からの救いなのか

 

  

 

 

 

 

 

*1:別な人々は、明確な救いの理解や回心がなくても「洗礼」を受けることによってその人がクリスチャンになったと見なす。「あなたはもう◯年も教会に通っているのですから、そろそろ洗礼を受けませんか」といった勧めを牧師から受け、そのまま受洗し、何十年も救いの確信がないまま教会に通っている人々も少なくない。そのような考えと実践も言うまでもなく全く非聖書的なものである。

*2:決心によって救われるという教えも、「イエス・キリストを心に“受け入れる”」ことによって救われるという考えも、聖書には見られない。黙示録3:20は未信者ではなく、明らかにキリスト者に対する御言葉である。