道奥 MICHINOKU せみなりお

聖書を学び、聖書で考え、聖書に生きる

第一コリント3章

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パウロの話し方

 

パウロはコリント教会の人々に話す際、「御霊に属する人(spiritual men)」に対してではなく「肉に属する人(worldly, men of flesh)」あるいは「キリストにある幼子(infants in Christ)」対しての話し方をせざるを得ませんでした。つまり、成熟したクリスチャンに対する話し方ではなく、この世的で、幼いクリスチャンのレベルに合わせた話し方です。

 

あなたがたは、まだ肉に属しているからです。あなたがたの間にねたみや争いがあることからすれば、あなたがたは肉に属しているのではありませんか。そして、ただの人のように歩んでいるのではありませんか。(3:3)

 

彼らの幼さは、彼らの中にあった妬みや争いによって明らかでした。彼らはパウロ派、アポロ派、ケパ派、イエス派などを作って、対立していたのです。彼らの焦点は自分自身であり、自分の支持する指導者たちであって、キリストご自身ではありませんでした。これでは「肉に属している」と言われても仕方ありません。

 

 

教会の指導者たちをどう見るべきか

 

パウロは、植え、水を注ぐという指導者の役割分担と協力関係に触れた上で、「たいせつなのは、植える者でも水を注ぐ者でもありません。成長させてくださる神」(7節)であると訴えます。あるリーダーは雄弁で、あるリーダーはきめ細やかに個人的関わりをします。あるリーダーは決断力やビジョンに秀で、あるリーダーはとりなしの祈りに力があります。そのような人々が協力し合って教会を建て上げて行くのです*1。指導者たち同士はライバルではありません。

 

あるクリスチャンたちは教会の指導者に心酔し、まるで偶像のように扱います。「〜先生の仰ることなら間違いない」と考えるのです。さらに指導者たちには、そういう確かな存在でありたいと思ってしまう誘惑が残念ながらあります。こういう誘惑は「救世主(メシア)コンプレックス」とも呼ばれます。しかし、真のメシアは言うまでもなく主イエスご自身ですから、指導者たちは自分自身でなく主イエスを指し示すべきです。また、信徒は指導者に依存するのではなく、主イエスご自身に頼る信仰を養うべきです。

 

しかし、どうしたらそのような信仰が養われるのでしょうか。上に書いたことと矛盾するようですが、人々の信仰の成長過程においてやはり指導者たちは重要な役目を果たします。成長させるのは神ですが、植えたり、水を注いだりする働きも不可欠なのです。教会の牧師、教師はいてもいなくても良い存在ではありません。

 

これは子育てにも似ているのですが、子どもが育つのに親(もしくはそれに代わる保護者)は必要不可欠です。しかし、子どもがいつまでも親を必要とするように仕向けるのは間違いです。親がいなくても生きていけるような成長を遂げるように子育てをする必要があるのです。牧師は牧師依存の会衆を育てるのではなく、牧師がいなくても聖書的判断や行動ができる群れを建て上げることが求められます。

 

以上の内容をまとめると、教会の指導者たちを偶像視することも、その働きの重要性を軽んじることも誤りであるということです。

 

 

教会の指導者たちの責任について

 

パウロはここから、教会の指導者たちの責任に関する教えを展開していきます。

 

教会の土台は言うまでもなくイエス・キリストであり、パウロは、コリント教会の土台にキリストをしっかりと据えました。その後の指導者たちはその土台の上に、注意深く教会を建て上げていかなければなりません。

 

ある者は緻密で優れた建て方をし、ある者は杜撰な建て方をします。ある牧師は聖書と最大限格闘して聖書に忠実な説教を語ります。ある牧師は多少聖句を用いてあとは自分の意見を述べるといった説教を語ります。ある牧師は自分を好いて頼ってくれるファンを養成し、ある牧師は神だけに頼り神だけに仕える力強い信仰者たちを育てます。

 

それらの働きは、やがて終わりの日に真価を問われることになります。その評価の基準は、多くの人々が持っている基準とは異なります。

 

もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。(3:14-15)

 

牧師の評価は建て上げた教会によって決まります。場合によっては、外見としては教会の体裁を成していてもその中に真のクリスチャンがいないようなキョウウカイを作り上げてしまうこともあり得ます。大勢の聴衆が集まっていても、それらの人々はひょっとすると単に「〜先生のファン」に過ぎなかったかもしれません。火の中をくぐるようにして助かりますというのは、その指導者がクリスチャンとしての救いを失うわけではないという意味です。しかし、教会を建て上げる指導者としては失格であると言われているのです。

 

パウロは、教会という群れが聖霊を宿す「神の神殿」であることを語り、その神の神殿を全身全霊をもって尊び、破壊から守るべきことを教えます。建て上げることの失敗するだけでなく、教会を破壊するようなことをするならば「神がその人を滅ぼされます」とまで書かれています。特に、聖書に反するような教えで教会を破壊するなら、

これは特に指導者たちに課せられている責任です。ヤコブもこう教えています。

 

私の兄弟たち。多くの者が教師になってはいけません。ご承知のように、私たち教師は、格別きびしいさばきを受けるのです。(ヤコブ3:1)

 

 

指導者たちは誰のもの? 教会は誰のもの?

 

最後にパウロは、非常に印象深い宣言をします。

 

パウロであれ、アポロであれ、ケパであれ、また世界であれ、いのちであれ、死であれ、また現在のものであれ、未来のものであれ、すべてあなたがたのものです。そして、あなたがたはキリストのものであり、キリストは神のものです。(3:22-23)

 

教会の指導者たちは誰のものか…。それは「あなたがた(クリスチャン)」たちのものだというのです。そうです。牧師としての私は私のものではなく、教会のものです。よく「〜牧師の教会」という言い方がなされますが(それは便宜的にはやむを得ない表現かもしれませんが)本質的には間違っています。教会は牧師のものではなく、牧師が教会のものなのです。指導者たちは、キリストによって教会に立てられ、与えられた賜物です(エペソ4:11)。指導者たち全員が教会のものであるなら、その一人だけについて他の人にはつかないというのは間違いです。

 

では教会は誰のものでしょうか。牧師のものではなく、信徒たちのものだと考える人々もいますがそれも間違っています。「教会はみんなのもの」といった考えは本質的にはやはり誤りなのです。教会は紛れもなくキリストご自身のものです。私たち(教会全体)は私たち自身のものではなく、キリストのもの、神のものなのです。

 

牧師の務めは、教会が「牧師のもの」でも「みんなのもの」でもなく「キリストのもの」らしく喜んでキリストに従順できるよう御言葉をもって指導することです。キリストが神ご自身に従順されたように、教会がキリストに従順するとき、真に神の栄光が現れるのです。

 

*1:一教会一牧師制度には無理があるのではないか。やはり、異なった賜物や専門分野を持つ牧師(長老)たちによる複数牧会が望ましい。しかし、日本の教会の一般的サイズは初代教会の時代でいう「家の教会」の規模であり、経済的な意味で一人の牧師を支えるのも簡単ではないという現状である。だから、複数牧会などは夢のまた夢と考えてしまうのだが、「複数教会複数牧会制度」について検討する余地があるのではないか。初代教会においては、一つの都市にある複数の家の教会の集合体が「◯◯教会」であり、その中には複数の長老たちが存在していた。現代のように遠距離の移動も連絡も便利にできる時代であれば、一つの都市の中に限らずかなり広い地理的範囲においても「複数会衆複数牧会」が可能であると考える。異なった賜物を持った指導者たちが一致した福音理解を持って協力牧会することは大きな力になると考える。