道奥 MICHINOKU せみなりお

聖書を学び、聖書で考え、聖書に生きる

第一コリント4-5章

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指導者に要求されるもの

 

コリント教会では、どの指導者を支持する派閥に入るか…という分裂騒動が起こっていました。パウロは前章に引き続き、指導者たちをどう見るかについて教えます。これは、現在の私たちが教会の牧師、宣教師などをどのように見るかということに関係します。

 

こういうわけで、私たちを、キリストのしもべ、また神の奥義の管理者だと考えなさい。この場合、管理者には、忠実であることが要求されます。(4:1-2)

 

使徒たちを始めとする教会の指導者たちは*1、キリストのしもべです。それは具体的には神の奥義の管理者であることを意味します。

 

ある教会では、牧師を会堂の管理者と考えるかもしれません。ある人々は、教会組織の有能な管理者・経営者としての務めを牧師に要求するかもしれません。もちろん、会堂や組織の管理に携わっても良いのですが、しかし、最も重大かつ本質的な職務は「神の奥義の管理」です。それは、聖書を正確に解き明かし、不純物を入れないまっすぐな福音を語り続けることです。牧師には、教会の「教理」を忠実に守るガードマンの役割が要求されています。

 

 

謙遜のすすめ

 

パウロについてとやかく言う人々もいました。18節にあるように「どうせパウロはコリントまで来ないだろう」と考えていい気になり、パウロ批判を展開する人々もいたようです。パウロは他人からの評価や自分自身による評価ではなく、主からの評価を重要視すると宣言します。そして、使徒をさばいて自分たちを正当化するコリントのクリスチャンたちに対し、謙遜になるよう促します。

 

いったいだれが、あなたをすぐれた者と認めるのですか。あなたには、何か、もらったものでないものがあるのですか。もしもらったのなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのですか。(4:7)

 

私たちもこのパウロの語りかけに耳を傾けなければなりません。物質的にであれ、精神的にであれ、霊的にであれ、私たちがもし何かを持っているなら、それは自らが努力によって勝ち取ったものではなく主からの恵みです。「いや、私は努力しました」と言っても、その努力する力さえ神から授かった恵みです。だから誇ることなどできないはずなのです。

 

パウロは自分自身がいかに大きな労苦を経験しながら教会を建て上げ、指導してきたかを語ります。それは、誇るためでもなく、コリントの人々をはずかしめるためでもなく、彼らを「愛する…子どもとして、さとすため」(14節)です。15節に記されているように、パウロはコリントの人々にとって霊的なであったのです。

 

あなたにとって、霊的な父は誰でしょうか。あなたを救いに導き、あなたに霊的影響を与えてくれた人は誰でしょうか。今、神様があなたの上に置いておられる霊的リーダーは誰でしょうか。あなたはその人が与えられていることに感謝していますか。あなたはその人が愛を持って与えてくれている指導に対して謙遜に耳を傾けていますか。

 

また、リーダーとして立てられている者たちもこのパウロの姿を見て謙遜になる必要があります。彼はこう語ります。

 

…私はあなたがたに勧めます。どうか、私にならう者となってください。(4:16)

 

パウロは口先だけではなく、福音を生きていました。だからこそ、彼はこのように語ることができたのです。リーダーとして立てられている者たちは、まさにこのパウロのあり方を目指し続ける必要があります。私自身、自分の中にはそのように生きるために必要な資質が元々備わっているとは思えませんが、神の恵みによってそのように導かれていきたいと願っています。

 

 

パウロの弟子訓練の実

 

そのために、私はあなたがたのところへテモテを送りました。テモテは主にあって私の愛する、忠実な子です。彼は、私が至る所のすべての教会で教えているとおりに、キリスト・イエスにある私の生き方を、あなたがたに思い起こさせてくれるでしょう。(4:17)

パウロはその言葉通りに、パウロに「ならう者」を育てていました。彼は弟子訓練によってテモテを育てていたのです。本来の弟子訓練は「牧師の弟子」を作る働きではありません。テモテはパウロの弟子として訓練されたというよりも、パウロと同じような「キリストのしもべ」「神の奥義の忠実な管理者」として成長させられていたのです。

 

この時代、神学校というものはありませんでした。パウロという指導者が、テモテという次の指導者を育てたのです。教えることによって、共に過ごすことによって、モデルを示すことによって、また、時には厳しく訓戒することによって…。「一人が一人を育てる」という原則は今も有効です。もちろん組織化された神学校の存在を否定するわけではありませんし、そこには大きな利点もあるのですが、しかし、牧師自身が次の牧師を育てるという視点を持つことを忘れてはならないと私は考えています。どこかの神学校に送り込みさえすれば訓練してもらえる…といった考えは、どこか違うと思うのです。

 

 

教会における正しい「さばき」について

 

コリントの教会の抱えていた問題は、分派だけではありませんでした。自分の義理の母親を性的な関係を持っている人物がおり、人々はその罪を知りながら野放しにしていたのです。それほどまでに倫理的水準が下がっていたとも言えるでしょうし、罪を犯した人物の地位や何らかの力関係がその罪に対する厳しい対処を妨げていたのかもしれません。

 

多くのクリスチャンたちは「さばいてはいけない」と考えて、誰かに対して厳しいことを言うことを控えます。しかし、主イエスが「さばいてはいけない」と語られた意味は、文脈を読めば明確ですが「間違ったさばきをしてはならない。正しいさばきをしなさい」ということです。愛のない、思慮も知恵もない、聖書に基づかない、自分のことは棚に上げた…そんな「さばき」はしてはなりません。残念ながらそのような「誤ったさばき」によって他者を深く傷つけてしまうケースもあります。そのような人は本来、他人の目の塵を取り除く前にまず自分の目から丸太を取り除くべきなのです。

 

「誤ったさばきをしないように」と考えるとどうしても及び腰になってしまいがちですが、しかし、教会は、愛をもって、思慮と知恵をもって、聖書に基づき、自分自身も常に吟味しつつ、互いに正しいさばきを行っていくべき共同体なのです。教会の仲間の言動について「あれ?」と思った時、見て見ぬフリをするのでも噂話をするのでもなく直接本人に「大丈夫?」と声をかける共同体でありたいと思います。

 

コリント教会に蔓延していたのは「これぐらいは大丈夫」という高慢な意識でした。神ご自身の聖さや自分たちの罪の深刻さに対する意識がどんどん希薄になっていたのです。パウロはそのような高慢、慢心の傾向を「パン種」にたとえました。これは放置するとどんどん広がっていきます。

 

私は前にあなたがたに送った手紙で、不品行な者たちと交際しないようにと書きました。(5:9)

 

明白な罪を指摘しても全く悔い改める意思を持たない人がいます。開き直ったり、自己正当化をするような人々です。これは教会外の人々のことではなく、自分をクリスチャンだと称する人々の話です。パウロは具体例として「もし、兄弟と呼ばれる者で、しかも不品行な者、貪欲な者、偶像を礼拝する者、人をそしる者、酒に酔う者、略奪する者がいたなら、そのような者とはつきあってはいけない、いっしょに食事をしてもいけない」と語りました。

 

10節で挙げた罪のリストに、パウロは、11節で「人をそしる者」と「酒に酔う者」を加えている。「人をそしる者」とは、他人に向かって暴言を吐く者のことである。しかし、ここで一つ注意しなければならない。もしその人が一度だけ腹立ち紛れに不注意な言葉を使ったとしても、彼は集会から除名されるべきだろうか。そうではなく、この表現は習慣的な行動を指していると思われる。つまり、「人をそしる者」とは、他人を罵ったり、乱暴で失礼な言葉を浴びせたりするのが特徴となっている人のことである。…「酒に酔う者」とはアルコール飲料を飲みすぎる人のことである。(ウィリアム・マクドナルド)

 

習慣的で明白な罪を繰り返し指摘されながら、それをなんとも思わないような人については、その人をクリスチャンとして扱うことをやめ、交わりを断つことが教えられています。悔い改めない状態の人を「それでもいいよ」と扱うことは実は愛のないことです。むしろ「あなたにどうしても悔い改めてほしい。それまでは交わりを持つことができない」という態度が、聖書的な正解です。*2

 

 

 

*1:聖書の啓示が完了した現代においては、使徒職と預言者職は存在しない。使徒、預言者、伝道者、牧師、教師それぞれの役割や性質(職位や権威ではない)を継承する形で、牧師(=監督、長老)が存在していると考えてう良いだろう。

*2:マタイの福音書には「もし、あなたの兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。もし聞き入れないなら、ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい。ふたりか三人の証人の口によって、すべての事実が確認されるためです。それでもなお、言うことを聞き入れようとしないなら、教会に告げなさい。教会の言うことさえも聞こうとしないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。」(18:15-18)と記されている。

 

教会戒規は安易に執行されるべきものではない。運用には慎重を要する。しかし、必要な場合がある。その時には、しかるべき正当な手続きを経てしっかりと執行されることにより、教会は神の聖さと愛の両方を正しく表すことができる。

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