道奥 MICHINOKU せみなりお

聖書を学び、聖書で考え、聖書に生きる

ヨブ記にある両面性

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ヨブ記を読んでいくと、彼と友人たちの対話の中には「両面」があることに気づきます。

 
・ヨブと友人たちの言葉には、真理も含まれている。
・ヨブと友人たちの言葉には、誤りも含まれている。

 

ヨブや友人たち語る言葉には紛れもない真理が含まれています。しかし、彼らの言葉の全てを鵜呑みにして、安易に自分たちに適用することはできません。それについては前の記事で述べた通りです。

  

mentoringservant.hatenablog.com

 

 

 

 以下のようにも言えるでしょう。

 

・彼らの深遠な神学的対話は、有益な示唆を少なからず含んでいる。
・彼らの深遠な神学的対話は、人間の知恵の限界をも示している。
 
 
 
 
 
また、事柄そのものは真理であっても、それを伝える際の態度、相手の状況などを度外視してはなりません。
 
・ある真理を口に出して語る際には、それに相応しいTPOがある。
・ある真理を口に出して語る際には、それに相応しくないTPOがある。

 

 

  

 

さらに重要なのは以下の両面です。

 

・ヨブは、神と自分が敵対関係に陥っていることを感じていた。
・ヨブは、敵対関係をとりなしてくださる方が神ご自身以外にないことを感じていた。
 
 
 
 
もう少し詳しく言うと、次のように表現できるでしょう。
 
・苦しみ、痛み、悩みの中で、ヨブは混乱し、絶望しかけていた
・苦しみ、痛み、悩みの中で、ヨブは神ご自身(究極的にはメシア)にのみ希望があることを見出しつつあった

 

 
 
 
ヨブが神自身(あるいはメシア)に希望を見いだしつつある様子が、16-19章において見て取れます。日本を代表する神学者であった北森嘉蔵氏はこの部分をヨブ記の頂点であるとしています。

 

ヨブ記講話

ヨブ記講話

 

 

 
 
幾つかの節を見てみましょう。
 
今でも天には、私の証人がおられます。私を保証してくださる方は高い所におられます。私の友は私をあざけります。しかし、私の目は神に向かって涙を流します。その方が、人のために神にとりなしをしてくださいますように。人の子がその友のために。(16:19-21)
 
ヨブは、友人たちからの言葉もあざけりであると感じ、孤独感を感じていました。しかし、彼は、天の高い所におられる彼を弁護してくださるお方に思いを向けています。
 
 
 
私は知っている。私を贖う方は生きておられ、後の日に、ちりの上に立たれることを。私の皮が、このようにはぎとられて後、私は、私の肉から神を見る。この方を私は自分自身で見る。私の目がこれを見る。ほかの者の目ではない。私の内なる思いは私のうちで絶え入るばかりだ。(19:25-27)
 
ヨブはおぼろげではありますが「贖い主」を見上げ、このお方を慕い求めています。ここに一筋の希望の光が見えます。
 
 
 

※ ヘンデルのメサイアの中では、この箇所が美しく歌われています。 

 
 
 
私たちは本当に幸いなことに、この「贖い主」がどなたであるかをはっきりと知っています。パウロはこのように語ります。
 
神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。(コロサイ1:13-14)
 
 
しかし、少し考えてみたいと思います。
 
 
私たちは、確かにヨブのいう贖い主が神の御子イエスであるという“知識”を得ています。これは素晴らしい知識です。でももしかしたら、それが単に知識や情報を得ることに止まっている場合もあるかもしれません。単なる知識を超えて、このお方を真に体験的、実際的、人格的、情熱的に知り、愛するようになるのは、私たちの人生における苦難や悲しみのただ中においてなのかもしれません。その点においては、ヨブが大先輩です。続けてこのヨブ記を読みながら、真の贖い主に出会うことがどんなことであるかを学んでいきましょう。
 

 

ヨブ記講録

ヨブ記講録