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道奥 MICHINOKU せみなりお

聖書を学び、聖書で考え、聖書に生きる

ヨハネの黙示録8章

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これは「嵐の前の静けさ」か…。それとも…?

 

「小羊が第七の封印を解いたとき、天に半時間ばかり静けさがあった。」(黙示8:1)

 

この箇所には、私たちに対する「大きな慰め」「励まし」のメッセージがあります。この「半時間ばかりの静けさ」が何であるのかについて、聖書注解者たちの意見はさまざまに分かれていますが、この静けさは「祈り」と関係しているという理解を持つのが良いでしょう。

 

「…もうひとりの御使いが出て来て、金の香炉を持って祭壇のところに立った。彼にたくさんの香が与えられた。すべての聖徒の祈りとともに、御座の前にある金の祭壇の上にささげるためであった。香の煙は、聖徒たちの祈りとともに、御使いの手から神の御前に立ち上った。」(黙示8:3-4)

 

七人の御使いに続いて「もうひとりの御使い」が登場します。御使いは「神からの使い」という表現で、他の箇所では主イエスご自身を意味することもしばしばある表現です。この「もうひとりの御使い」が主イエスであると多くの学者は考えますが、そうだとするといったい何をなさっているのでしょう。それは「聖徒たちの祈りと共に香を神にささげる」という行為です。

 

は、旧新約聖書を通して常に「祈り」「とりなし」の象徴として用いられています。つまり、主イエスは、ご自身の聖徒たち*1の祈りと共にとりなしの祈りを捧げてくださった。そこでは「静けさ」が起こっていました。天は本来、賛美に満ちたとてつもなく賑やかな場所ですが(黙示4:5-11,5:9-14)、しかし、「しーっ!ちょっと静かに!」と、神は祈りに耳を傾けられます。

 

香の煙が神の御前に立ち上ったということは、捧げられた祈りが神の御前まで届いた。…ということです。私たちが苦難の中で祈りを捧げるとき、「本当にこの祈りは神に届いているのだろうか」と感じることがあるかもしれません。しかし、祈りは届き、神はそれを一言ももらさずに聴いてくださいます。主イエスが、いつも父なる神と私たちとの間でとりなしていてくださるからです。だから、祈らない手はないのです!

 

「キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。」(ヘブル7:25)

 

 

内村鑑三と再臨運動―救い・終末論・ユダヤ人観

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*1:ここでの「聖徒」は、直接的には「患難時代にキリストを信じた者たち」を意味する。しかし、黙示録の書かれた1世紀末のクリスチャンたちは、ローマ帝国の大迫害の最中にこの箇所を読んで励ましを受けたことだろう。我々も、それぞれの苦難の中において「それでも祈りは聞かれている!」と、この箇所から励ましを受けることができる。